死は遍在するから、あまり遠い先に死を想定してはいけない。現在の瞬間と死の瞬間との間に為すべきこと、それは、生きること、最大限に生き生きと生きることだ。こうモンテーニュは考える。
このような生き方の表現として、モンテーニュはオウィディウスを引用する。「私が死ぬときは、まさに私が働いているときであらんことを」(« Cum moriar, medium soluar et inter opus »)。この願いを自らの生活に引きつけて、モンテーニュはこう願う。まだ出来上がってはいない自家菜園でキャベツを植えていて、死に無頓着なままでいるときに、死が訪れんことを、と。
死を想定し、予期する。これは、モンテーニュがストア派の教説をしっかりと身につけていることを意味する。しかし、モンテーニュにおける死の思想には、エピキュリアンの響きもまた聞き取れる。
死の訪れが瞬く間でかつ激しいものであれば、私たちはそれを恐れるには及ばない。死が緩やかに到来するのならば、例えば、病気の場合、もはや生を愛することもなく、それを厭うようになる。生の喜びは影が薄くなっていく。そして、死の接近はそれだけ穏やかになる。
ルクレティウス『物の本質について』から「すべてものは汝とともに死に入る」(« omnia te vita perfuncta sequentur »)という一行を引用し、それに続けて、私たちの死の瞬間に、数しれぬ人間・動物・その他の生き物たちもまた死ぬだろうとモンテーニュは付け加える。
私たちは、結局のところごくありきたりでしかない物事を恐れている。仮面を被っただけの友だちを恐れる子どもたちのように。その仮面が剥ぎ取られれば、そこにはもはや恐れるべきものは何もないのだ。その到来の前に覆いを剥ぎ取られた死についても、また同様である。