昨日見たような西洋中世キリスト教世界での古代哲学の自律性の喪失は、しかし、日々の生活の中での魂の解放を最終目的とした「精神的実践 exercice spirituel」としての哲学の完全な衰滅を意味したわけではもちろんない。
哲学は抵抗したのである。教会が古代的教説をその権威下に「収奪」することで拡大してく知的勢力圏の周縁で、精神的実践としての哲学は、少なからぬ哲学者たちによって生きられ続ける。元のままの「無傷の」哲学は、かくしてその命脈を保ち、その伝統は近代へと受け継がれていく。
古代哲学の伝統を保持する細道が中世から近代へと通じている。修道院生活あるいは在俗信徒として教会に帰属する宗教的生活形態を受け入れることができない、あるいは受け入れたくない哲学者たちには、なお、神学のに成り下がった哲学を拒否し、純粋に哲学的な生活様式を選択する可能性が残されていたのである。
そのことは、しかし、古代思想の継承者としての哲学者たちと教会組織との間に相互浸透がまったくなかったということではない。ただ、古代哲学において精錬された生の技術・知の実践・言説に拠る教化の中には、中世・近代を通じて、そのまま保持されてゆく要素がいくつかある。それらの要素は、近代のある哲学者たちにおいて、古代とは異なったさまざまな形の「精神的実践」として、生き続け、働き続ける。
Dans ce contexte sombre pour les lumières de la philosophie, celle-ci néanmoins résiste. Il demeure une continuité des exercices spirituels en marge de la réappropriation chrétienne ; de nombreux philosophes, de nombreux courants perpétuent la tradition de la philosophie antique. Si le christianisme s’approprie les exercices spirituels des Anciens, il ne peut en effet empêcher une continuité de ces derniers en dehors de tout pouvoir pastoral pour ceux qui résistent et souhaitent conserver une philosophie « intacte » (X. Pavie, op. cit., p. 205).