人間の存在構造がロゴスよりもより深い次元でパトス的であるとしても、いつもそのことが顕在的に私たちに示されているわけではない。むしろ、自分では冷静に「理性的に」判断して行動しているつもりでも、その判断を動機づけているのは、実のところ、自分ではよく制御できない情念であるということもよくあることではないだろうか。しかし、見たところ異論の余地なく、「ここはこうするのが当然でしょ」と私たちが言えるときには、パトスは働いていないか、あるいは副次的な役割しか果たしていないように見える。
そのようなロゴスを基調とした私たちの「日常的な」生活の場合とは逆に、パトスが私たちの心に顕在化するときがある。それは「転機」が訪れたときである。そのとき、私たちの心は、「したい」と「ねばならぬ」との抗争の劇場となる。
例えば、思いもかけぬ仕事のオファーがあったとしよう。それは自分にとってとても魅力的な提案だ。自分の能力を存分に試す仕事ができそうだ。しかし、それには今の安定した職を捨てなくてはならない。でも、家族は養わなければならない。このような葛藤を引き起こすのもパトスだし、その渦中にあって、「これだ」と選ばせるのもパトスだ。葛藤を孕んだこの選択過程を経て、私たちは再び「存在の秩序」の中に戻っていく。
つまりパトス的なものは「したい」と「ねばならぬ」との始源だと定義することができる。パトス的なものがそのつど特定の「したい」や特定の「ねばならぬ」を創始したのであって、このことを確認した時には、既に存在的に実在するものの認識への移行、事象への移行が再び開始されている。(294頁)