「モナドの場所的な多重化」と題された短章(第30章)の中でこの多重化を説明している箇所をまず引用しよう。
モナド間の出会いでは、ある主張とそれに反対する主張、引力と斥力、愛と憎しみ、合体と分離が起こってくる。つまり出会いのなかで多重化が起こり、この多重化を経験するなかで他のありかたへの転移が生じる。つまり全体が二重モナド的 dimonadisch になっているわけである。(167頁)
モナドとは、差し当たり、私たち個体的人間一人一人のことだと考えてよさそうである。この意味でのモナド間に出会いが起こると、両者の間に関係が発生し、その関係は必ず対立する二つの反力間の緊張を孕んでいる。つまり、モナド間の関係はつねに二重なのであって、出会いによって発生した二重性によって、その出会いの中で両モナドは動的に定義し直される。しかし、モナド間の出会いは二重性に終始するものではない。
正義の女神ユスティツィアですら剣を持たねならないのだし、そうなると彼女もモナド間にもともとあるゲームの規則に服さねばならない。ユスティツィアが平和を樹立するその瞬間、彼女自身がモナドなのである。となると今度は、ゲームは三重モナド的 trimonadisch だということになる。これがモナドの多重化ということなのである。(同頁)
個体としてのモナド両者の間に成り立った具体的関係は、それが一回的なものであるかぎりにおいて、別のモナドを形成する。つまり、出会った二つのモナドの間に成り立った平和的な関係も、それが一回的・個別的な「あいだ」であるかぎりにおいて、「平和」という抽象的な純粋概念ではなく、反力間の対立を内包したもう一つのモナドだというわけである。
次に、この短章の木村敏による註解の一部を引用する。
「私」が「あなた/おまえ」と「それ」を共有する、というわけだ。チェスでも碁でも将棋でもなんでもいい。テニスでも合奏音楽でも社交ダンスでもいい。二人が一つの「あいだ」を生み出し、「あいだ」が二人の主体性/主観性を生み出す。そして「あいだ」は「あいだ」自身の法則をもっている。勝負の分かれ目はこの「あいだ」独自の法則によって決まってくる。(168頁)
しかし、この引用の中で挙げられている関係性の具体例のうち、合奏演奏は二人に限定されない(テニスもダブルスがあるが、今はそれは措く)。そこでの関係性は、さらに多重化・多元化し、複雑化するはずである。
一個のモナドの単一存在性、二つのモナド間の邂逅、三つ以上の個体的モナドが分有する関係構造、これらの間にあるのは、単なる量的差異ではなく、互いに他には還元できない質的差異であるとすれば、吉本隆明の共同幻想論に依拠して、それらをそれぞれ個人幻想、対幻想、共同幻想と呼ぶこともできるのではないだろうか。