内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

有機体とその環界との鏡像的対応 ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(三)

2017-01-17 23:51:27 | 読游摘録

 ある食べ物が私たちの目の前に置かれているとしよう。それを見て、そしてその匂いを嗅ぐ。そのとき、その匂いがまさにその食べ物から発している匂いであり、それが視覚からの情報と協和的であるとき、私たちは、その知覚にしたがって、それを食したり、あるいはそれを食することを拒んだりする。これは私たちが毎日それと意識せずに繰り返していることである。この協和的知覚像が成り立たないとき、私たちの生存は脅威に曝される。
 これは食べ物の例に限られたことではない。私たちが毎日それと意識せずに繰り返していること、例えば、ふらふらしたり躓いたりせずに歩くこと、ある物をそれにちょうど必要な力で手に取ることなど、数え上げればきりがないが、これらはすべてこの協和的知覚世界の中でのことであり、その世界に亀裂が入るとき、私たちの生存は危機に曝される。
 この協和的知覚世界は何に基いているのだろうか。この問いに対するヴァイツゼッカーの答えは以下の通りである。

 器官が栄養物の匂いを信頼しうる仕方で伝えるとき――つまりその栄養物自身がその匂いを発散し、この対象に合致した知覚が生じるとき――生存の保証が確立される。これに反して同一の匂いが別の物質から発散されたり、またはその匂いがしているのに器官が別の感覚を生み出したりする場合には、生存が脅威に曝されることになる。地球という重力の場の中で頭部がいかなる加速度と傾斜を示すかを前庭器官が信頼しうる仕方で伝え、これに対して、われわれが転倒したり衝突したりしないような仕方での運動が行われるとき、生存はその身体平衡に関して保証されることになる。しかしこの保証は常に、物理学的法則に従う環界と有機体の自己運動との鏡像的対応に基いている。この対応が実現されている限り、しかしただその限りでのみ、連続性としての生命は可能なのである。(290頁)

 この鏡像的対応が成立しているときはじめて、「自我もまた自らの環界の中で安全と確実を保証される」(同頁)。