生物学的行動を反射生理学的説明に還元できないのは、事物の本性からしてそれが不可能だからだということをヴァイツゼッカーは神経生理学的研究によって明らかにした。
心と物的自然との外面的-実体的な二元論を主体と客体の対極的に結合した一元論に置き換えたわれわれにとっては、そのような教義は事物の本性からして可能ではありえない。つまり鳥瞰図的にすべての行為の組合せを展望しうるような高みは存在しない。われわれは自ら常に新たに生命の運動の中へ巻き込まれながら、それを断片的にでも捉えるように務めねばならぬ。しかし結果としての主体客体の出会いにとっての前提条件が満たされるためには、主体の側からの働きで現出するもの、即ち運動と知覚が、客体の側からの働きで現出するもの、即ち物的自然の合法則性と互に出会わねばならない。この出会いは、有機体の行為が外的な自然現象と適合し、逆に自然現象が有機体の諸条件に当てはまる時に起きる。その結果、ダーウィン以来生物学が適応 Anpassung と呼んでいる事態が生じることになる。(289頁)
それ自体で独立に存在する主体も客体もない。主体が主体でありうるのは、客体へと運動と知覚を通じて働きかけるかぎりにおいてであるが、それだけではまだ必要条件を満たしただけである。その働きかけが客体の合法則性に適合しているときはじめて、主体は主体であり、客体は客体でありうる。私たちは生命の運動の中に巻き込まれつつあるかぎりにおいて主体としての生成過程にあり、その過程はそれが自然現象の合法則性に適合しているかぎりにおいて持続する。