死すべき存在であることが生きるものに与える基礎的色調が受苦であるというような「感情的」認識は、生物学的研究には不必要であるかも知れない。
しかし真の研究者の道を辿る者、また本書における探究の歩みにこれまで従って来た者は、このようなペシミズムの色調が度外視しえないものであることをわきまえている。われわれの言うのは、感官の生理学の中には痛みの生理学も含まれねばならぬということだけではない。生命とは一つの過程なのではなく、「受苦的に蒙る」もの erlitten でもあるということを明確に表明することなしには、有機体や生命についての真理に即した物の言い方はできないのだという洞察を不可避ならしめること、これが悟性の要請である。生命とはただ自己自身を措定し、能動的に働くだけのものではない。生命はまた、存在せねばならぬというはめにおちいっているのであって、その限りにおいてまた受動的でもある。この点に関してわれわれの述べるところは、存在的なるもの Ontisches のみにかかわるのではなく、パトス的なるもの Pathisches にかかわっている。そして生命のパトス的な属性については、その存在的属性についてと同じ仕方では論じられないことは明らかである。(291頁)
いっさいのパトスから解放され、ただロゴスにのみ従って在るものは、もはや生命ではないだろう。個々の生命は、ただそこに在るのではなく、自らの意志で能動的に行動することによってのみ己を規定するものでもなく、ある時ある処に在ることそのことを不可避的に否応なしに被っているかぎりにおいて、根本的に受動的な存在であり、したがって、生命はそのようなものとして総合的に探究されなければならない。こうヴァイツゼッカーは考える。
私たちの日々の一挙手一投足は、物理の法則に従ってそれが為されるまさにそのことによって、パトスを目に見える形で表現し続けている。