直接知覚によって歎賞されるべき美的対象の不在あるいは非在を詠うことによって、その幻像を〈虚〉として〈実〉景に重ね合わせ、それによって詩的空間に情感的奥行を与えるという技法は、『新古今』においてその洗練の極みに達する。
『新古今』には、「むなしき空」という表現を含んだ歌を八首数えることができる(『新編国歌大観』歌番号で順に149、358、821、830、1134、1846、1944、1952)。そのすべてがそうだというわけではないが、そのいくつかにおいて、「むなしき空」は、いわば〈虚〉像が立ち現れる場所として自覚されている。
花は散りその色となくながむればむなしき空に春雨ぞ降る (巻第二春歌下)
式子内親王の歌。音もなく春雨が降って来る「むなしき空」の眺めの中に、すでに散って跡形もなく色香もない花が失われた時の形見として〈非在〉する。ある対象の不在あるいは非在の場所としての空が降る春雨の現前を通じて自覚へともたらされる。
この非在の場所としての「むなしき空」の眺めは、すでに『和泉式部続集』の次の一首に先例が見られる。
明けたてばむなしき空をながむれどそれぞとしるき雲だにもなし
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川文庫、2007年)には、式子内親王歌の「むなしき空」に注して、「「虚空」を和らげていった」とあるが、より精確にはどういうことなのか。同じことを言うのに、言葉の響きを和らげたということに尽きるのか。
私は以下のように考えている。
「むなしき」は、その漢字表記に「空」をあてるにしても「虚」をあてるにしても、形容詞として情意性を含んでいる。いわば空に情意が浸潤している。それに対して、「虚空」は 情意性の浸潤を受け付けない。と同時に、無限の空間としてそれをどこまでも超え包み、情意の自己触発性をそれとして析出することを可能にする。