仏教経典、例えば、龍樹の『中論』、『般若経』『大集経』、『法華経』、『大日経』などに見られる「虚空」という言葉は、私たちが日頃見ている空(そら)を第一義的には指しておらず、「全宇宙的空間」あるいは「何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所としての空間」というほどの意味で使われている。
和歌に見られる「むなしき空」という表現は、この仏教用語の大和言葉への翻案であろうが、『万葉集』には用例がない。もちろん、「むなし」という形容詞については、大伴旅人の有名な歌「世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり」を忘れるわけには行かないけれど(この歌については、2014年1月11日の記事を参照されたし)。
『古今和歌集』には、次の一例のみ見られる。
わが恋はむなしき空にみちぬらし思ひやれどもゆく方もなし(巻第十一恋歌一)
「私の恋は、虚空いっぱいになってしまったらしい。いくら思いをはせてみても、どこにも行き場がないのだ」(高田裕彦訳注『新版古今和歌集』)。
見ての通り、高田裕彦訳にはまさに「虚空」という言葉が使われているわけだが、この歌に仏教伝来の宗教性はもはやまったく感じられない。実らぬ恋(実った恋はもはや恋ではないが)に苦しむ思いが空に満ちていきどころがないことを嘆くというもっぱら抒情的な歌である。恋心が空に満ちるという発想は、当時ほかに類例がなく、その意味で斬新であるとは言うことができる。
しかし、仏教的「虚空」から乖離した「むなしい空」として広がるだけの抒情によっては、魂のいかなる救済も希求できない。ただ「むなしさ」を果てしなく嘆くことができるだけだ。
この「むなしさ」の極みが無常感というより根本的な感情に変化し、そして、それが思想化されることで人生観・歴史観・世界観としての無常観となり、それがさらに形而上化されることで再び宗教的無常観へと深化される、とまあこんなふうに、唐木順三の名著『無常』に倣って、日本思想史を古代から中世にかけて概念史的に辿ってみることもできるだろう。
しかし、私の意図は、あくまで詩歌作品に密着しながら哲学的考察を継続・発展・深化させることにある。