今日の記事の右上に貼り付けた写真は、昨日、大学付属植物園で撮った、散りぎわのマグノリア。輝きと張りを失いはじめた薄紫の花弁と陽光に映える若葉の新緑とのコントラストが美しくもちょっと切ない。
昨日は、大学封鎖により休講。今日は、全国レベルでの改革反対集会のために休講。結局、今週私は授業なし。このような「公的な」理由での休講の場合、補講の義務はない。それに、封鎖により延期された試験の教室確保が優先されるから、同時期に補講のために空いている教室を見つけることは事実上難しい。結果として、先週も休講にした学部三年の近世文学史は、予定回数より二回少なくなってしまう。
毎年、学部最終学年最終学期の最後の四回の講義は、それぞれ、本居宣長の文学批評原理論、新井白石の近代的学問論、伊藤仁斎の生命論的倫理学、荻生徂徠の知の考古学について話すことにしているのだが、今年は、封鎖のあおりで、内容の大幅な変更・縮小を強いられる。私としては残念至極であるが、学生たちにとっては、それだけ試験準備の荷が軽くなるから、喜んでいるかもしれない。
しかし、自分で言うのもなんだが、私の講義の試験問題は、結構面白いんである。ほとんどの学生は、それを面白がって、真剣に準備し、なかなか読みごたえのある答案を書いてくれる。
例えば、近世文学史の中間試験の問題は、次のような課題であった。
西鶴と芭蕉を招いて「文学とは何か」というテーマを巡る架空の討論を準備・開催せよ。そして、その討論の進行役を務めよ。討論の年月・場所は、同時代人である両者の伝記的事実およびそれに関連する歴史的所与からしてあり得たかも知れない設定でなければならない。討論を始めるにあたって、開催者として自己紹介し、この討論を準備・開催した動機を述べよ。論述は、司会進行役として討論後にまとめた記録という形式でもいいし、ライブ形式でもよい。司会進行役として、まず、討論のテーマ・論点を明確に提示し、両者に対してそれぞれに的確な問いを順次投げかけ、西鶴と芭蕉とがそれぞれ自分の文学観を打ち出しやすいように二人の討論を仕切りなさい。
全部で二十二枚の答案中、互いに似通った答案はまったくなかった。ほぼ全員、講義内容を踏まえつつ、授業中には触れなかった歴史的事実までそれぞれによく調べ、それらに依拠しつつ、自らの思考力と想像力を動員して、「文学とは何か」という問いと向き合ってくれた。司会者として、架空の人物を避け、蕉門十哲のうちの一人を選んだ答案が六枚あった。それぞれ選んだ門人は異なっていたが、いずれも見事な答案であった。その他にもこちらをうならせるような洞察を示してくれた答案もいくつかあった。これらの答案を読むことは、たとえそれが採点のためであっても、愉しくさえある。
彼らにとって学部で受ける最後の試験の一つになる近代文学史の期末試験は、5月9日に予定されている。試験問題は、遅くとも来週水曜日までには予告するつもりでいる。春休み中にしっかり準備しておいてほしいからだ。しかし、今回は課題に使えるこちらの「持ち駒」が少ない。
おそらく、本居宣長の『紫文要領』『石上私淑言』『源氏物語玉の小櫛』『うひ山ぶみ』の原文の抜粋を春休み中に読んでおくように指示し、休み明けの最終講義のときにそれらについての注釈を示し、その上で、現代の研究者・思想家・批評家たちの「もののあはれ」論を参考資料として与え、文学の批評原理としての「もののあはれ」について論じさせるような課題になるだろう。
こんな試験問題を考えるのも、私にとっては、教師(狂師と同音異義、いや、同音同義か)としての愉しみの一つである。