本居宣長が『古事記』研究に35年の歳月をかけることになる機縁が宝暦13(1763)年5月25日にたまたま松坂に投宿した賀茂真淵とのたった一度の対面にあることはよく知られている。戦前は特に、「松坂の一夜」という文章が尋常小学国語読本に載っていたこともあり、この二人の一期一会の話は広く知られていた。
この文章は、本居宣長記念館のサイトに発行年を異にした6つの原資料に基づいて掲載されている(こちらを御覧ください)。この教科書版の元になる文章を書いたのは佐佐木信綱である。その原文も同記念館のサイトで読むことができる。まず、佐佐木信綱の原文の方から、その最後の数段落を引用する。
夏の夜はまだきに更けやすく、家々の門(かど)のみな閉ざされ果てた深夜に、老学者の言に感激して面ほてつた若人は、さらでも今朝から曇り日の、闇夜の道のいづこを踏むともおぼえず、中町の通を西に折れ、魚町の東側なる我が家のくぐり戸を入つた。隣家なる桶利の主人は律義者で、いつも遅くまで夜なべをしてをる。今夜もとんとんと桶の箍(たが)をいれて居る。時にはかしましいと思ふ折もあるが、今夜の彼の耳には、何の音も響かなかつた。
舜庵は、その後江戸に便を求め、翌十四年の正月、村田傳蔵の仲介で名簿(みやうぶ)をさゝげ、うけひごとをしるして、県居の門人録に名を列ぬる一人となつた。爾来松坂と江戸との間、飛脚の往来に、彼は問ひ此(これ)は答へた。門人とはいへ、その相会うたことは纔(わず)かに一度、ただ一夜の物語に過ぎなかつたのである。
今を去る百五十余年前、宝暦十三年五月二十五日の夜、伊勢国飯高郡松坂中町なる新上屋の行燈は、その光の下に語つた老学者と若人とを照らした。しかも其ほの暗い燈火は、吾が国学史の上に、不滅の光を放つて居るのである。
附言、余幼くて松阪に在りし頃、柏屋の老主人より聞ける談話に、本居翁の日記、玉かつまの数節等をあざなひて、この小篇をものしつ。県居翁より鈴屋翁に贈られし書状によれば、当夜宣長と同行せし者(尾張屋太右衛門)ありしものゝ如くなれど、ここには省きつ。
最後の段落から、この文章は、佐佐木信綱自身が松坂で幼少期に古老から聞いた談話に宣長の日記や『玉勝間』の数節をあざなって書いた創作だとわかる。全文でも2000字ほどの掌篇だが、名文だと思う。
この文章を佐々木自身かあるいは他の誰かが小学国語読本用にやさしく書き直した文章が「松坂の一夜」として戦前の国民に広く知られることになる。上掲引用文の最初の段落に対応する部分だけ引用する。
夏の夜は更けやすい。家々の戸はもう皆とざされれてゐる。老学者の言に深く感激した宣長は、未来の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町すぢを我が家へ向つた。
小学生用であるから当然のことではあるが、随分やさしくリライトされている。それでも宣長が真淵に対面したときの様子やその直後の感激と興奮冷めやらぬ気分の高揚はよく伝わってくる文章であることにかわりはない。
この国語読本の編纂に携わっていた国文学者高木市之助は、「この種の教材でおそらく一番よくできているのは、白表紙本では、巻11に載った「松坂の一夜」ではないかと思います。真淵・宣長師弟の美しい出会いを描いたこの教材を懐しく思い出す人たちも多いはずです」(『【尋常小学】国語読本』高木市之助述、深萱和男録、中公新書、67頁)と証言している。