内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

花は花でないから花である ― 花から花への蝶躍的現成論(一)

2018-05-03 20:28:47 | 哲学

 今日の記事のタイトルは、賴住光子著『正法眼蔵入門』(角川ソフィア文庫、2014年、電子書籍版2015年)からお借りした。
 本書第四章「「さとり」と修行」中の「「空華」という存在」と題された第三節末尾に出て来る表現である。昨秋以来、日本語の書籍に関しては特に、電子書籍を頻繁に利用するようなっているが、本書もつい一昨日購入したばかりである。日頃電子書籍は大変重宝しているが、出典の頁数を示せないのが難点である。
 それはさておき、さっそく本題に入ろう。
 日常生活の中で、「花!」と一言叫ぶときとは、どんなときだろうか。それは、例えば、思いもかけぬところに花が咲いているのに気づいてちょっと驚いたとき、あるいは、墓参りの際の供花のために予め買っておくべきだった花を買い忘れたことに気づいたときなどだろう。もちろん、他にいくらでも違った状況を想像することができる。
 「これは花だ」と言うときはどんなときであろうか。これもいろいろ想像できるが、暗喩は除外するとして、例えば、一見して、花なのか葉なのか、はたまた実なのか、わからずに戸惑っているとき、誰かがそう断定するときとか。この場合、それが正しいかどうかは、ここでの問題ではない。
 「花は花だ」、これはどうだろう。こんな同語反復、どんなときに使うだろう。例えば、あんまり綺麗じゃない花を見て、でもまあ、これも花には違いないよねって認めるときとか。
 しかし、ここまでは、花が花として立ち現れるという事柄に疑いを差し挟むことなしに、さしたる思考上の困難もなく、理解できる経験ばかりである。
 ところが、花はどうして花として認識されるのだろうか、という問いを立てるに至ると、にわかに話がややこしくなってくる。さあ、ここからがテツガクのモンダイだ。
 「花は花ではない」とか宣われると、ちょっと驚くかもしれない。しかし、花と見えているものも、実は花ではない、とか、「花」という一般概念は花ではない、とか、ハナを花と呼ぶのは一つの約束事に過ぎない、とか、こういう類の話を飽きもせずに様々な意匠とともに古代から延々と繰り返して来たのがテツガク史なわけである。
 今日では、認知科学の目覚ましい進歩によって、認識論におけるテツガクの肩身は狭くなる一方である。しかし、そうであるからこそ、認知科学の知見をひとまず脇に退けて、誰にでも文法的には容易に理解できるはずの簡単な表現を手掛かりに、テツガク的に思考を深めていくことを試みてみよう。
 というわけで、今日の記事の表題に掲げた、「花は花でないから花である」という一文が登場するわけである。
 明日の記事から、上掲の賴住書を「導師」として『正法眼蔵』「空華」巻のテクストに触れながら、「花は花でないから花である」というテーゼが意味するところについて考えてみよう。
 例によって、事前のプランは何もない。空(から)である。その空におけるその日その日の思考の現成に身を任せる。ちょうど花から花へとひらひらと移り行く蝶のように。「花から花への蝶躍的現成論」と題する所以である。