先週の記事で何度か取り上げたカール・レーヴィット『共同存在の現象学』(熊野純彦訳、岩波文庫、2008年)の中にこんな一節がある。
ほかの「街」や「異国」に移りすむとき、共同世界的に分節化された周囲世界という意味で、ひとはべつの「世界」に身を置くことになる。街や地方は本質的に、それが生気づけられているありかたによって特徴づけられている。つまり街や地方に生物がただ在るということによってではなく、住宅、街路、街や地方は、そこに住まう者、住みこむ者、住みつく者によって「生気づけられて」いるのである。住まう者によって、住居としての住宅の性格が規定される。住居は住まい、居をかまえるために現に存在するからである。居住空間があるのは、住まう人間たちがあってこそのことである。街に住みつく者が、住みこむ者としてその「街」を特徴づけ、街のすがたや街の生活を規定しているのだ。(58頁)
このようないかにももっともな考え方に従えば、私は、ストラスブールの街に住みついても、住み込んでも、その街を特徴づけても、生気づけてもいない。根づいてもいなければ、溶け込んでもいない。あってもなくてもいい、限りなく無意味に近い違和として、ただある場所を一応合法的に占めているだけである。その街を生気づけているものとは何の関わりもなく、ただ生物として、ある場所に一定の行動図式にしたがって、ある期間、生息しているだけである。
もし「街に住まう」ということが、「生きる」ということにほかならないのであるならば、そして、それ以外の仕方で人は「生きる」ことができないというのなら、私はかぎりなく「死」に近い。
しかし、私は何か絶望的な気分でこんなことを書きつけているのではない。むしろ逆である。「街に住まう」ことによって隠蔽されてしまう何かの探究こそ哲学であり、その探究のためにこそ私は「ここ」にいるからである。