「空華」とは、もと、眼病を患っている人が空中に見る幻の花の意。そこから転じて、仏教においては、通常、仏道の理をわきまえない人が、物事を実体化してとらえてしまった結果生じる幻であり、否定されるべき迷妄のことを指す。そして、仏道の道理を正しくわきまえれば、この幻の花は消えると教説されてきた。
ところが、道元は『正法眼蔵』「空華」巻において、この語に独自の意味を与える。
仏祖の所乗は空華なるがゆゑに、仏世界および諸仏法、すなわちこれ空華なり。
それまで、幻として否定的な意味でしか使われてこなかった「空華」という言葉に、存在の真実相という肯定的な意味を与える。存在とは本来的に空において在る、それを「空華」という。
では、存在が空において在るとはどういうことか。
たとへば、華亦不曾生、花亦不曾滅なり。花亦不曾花、空亦不曾空の道理なり。
「華またかつて生ぜず、花またかつて滅せず」、「花またかつて花ならず、空またかつて空ならず」の道理なり。つまり、「花は生じも滅しもしない。花は花ではなく、空は空ではない、」という道理だという。
この文言の前半「華亦不曾生、花亦不曾滅」は、何が言いたいのか。花はけっして生じも滅しもしない、とは、どういうことか。
もとより、花は咲き、花は散る。一切の存在は生滅変化をまぬがれることができない、無常なものであるとは、仏教の基本原理で、道元もそれに依拠している。
しかし、同時に道元は、無常であるとは、個々の存在に着目した場合にいえることであり、それを「空」次元においてみるならば、生滅はないという。仮に立てられた個に即していうならば、それについては、生じるとか滅するとかいうことはできるが、さらに、それを空の次元に還元した場合、そこにあるのは個物ではなく関係の総体であり、個物に即さないから、生じるとか滅するとかいうこと自体もできなくなるのである。(賴住光子『正法眼蔵入門』角川ソフィア文庫)
一言にして言えば、花を生滅相において見ず、空相において覚知する、となろうか。