内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

本来空における今有華の自覚 ― 花から花への蝶躍的現成論(四)

2018-05-06 17:40:24 | 哲学

 まず、「空華」巻の次の美しい一節を読んでみよう。

 まさにしるべし、空は一草なり、この空かならず華さく。百草に華さくがごとし。この道理を道取するとして、如来道は「空本無華」と道取するなり。「本無華」なりといへども、今有華なることは、桃李もかくのごとし、梅柳もかくのごとし。

 この引用中の「空本無華」は、『首楞厳経』を典拠としている。「空もとより華なし」と読み下す。同経では、眼病患者は空中に花の幻を見てしまうが、そこにはもともと花などないのだ、という意味で使われている。
 ところが、道元は、独自の思惟をそこから次のように展開する。
 確かに空は本来的には「本無華」だが、今ここに花がある。桃李も梅柳もそのようしてそこにそれとして在る。本来的には空であるからこそ、今ここにおいて或る花が或る形を取って咲くということが生起する。より端的に言えば、花が咲くという〈こと〉が起る。
 私は、道元の言葉を、華まさに空なる無ゆえにそこに有り、と言い換えてみたい。〈もの〉としての花はもとより幻に過ぎない。そのような実体はどこにもない。空に、〈もの〉は、本来的に、ない。ところが、その空において、花が咲くという〈こと〉が起る。
 この〈こと〉に、事・言・異の三重の意味を込めて私は使っている。咲くという事、「花」という言語化、花が空において他の諸事物から差異化されるという意味での異なり、という三重の意味である。この〈こと〉なりを、道元は、「現成」と呼ぶ。
 「華亦不曾生、花亦不曾滅」では、花を生滅の相の下にではなく、空相において覚知する。「花亦不曾花、空亦不曾空」では、諸物の非時間自己同一性を否定する。「今有華」では、花が端的にそれとして現成する。この三段階を経て、「花は花ではないから花である」〈こと〉に至る。
 花は年々去来。そのことになんの変わりもない。しかし、「花は花でないから花である」〈こと〉に至るとき、世界は各瞬間に面貌を一新しつつある〈こと〉が自覚される。