昨日引用した『正法眼蔵』「空華」巻の文言の後半、「花亦不曾花、空亦不曾空」に移ろう。
「花またかつて花ならず、空またかつて空ならず」とは、文字通りには、「花はけっして花ではない、空はけっして空ではない」と読める。これはいったいどういうことか。
この部分を読むかぎりのこととして、少なくとも次の二つのことがまず指摘できる。
一つは、花と空とが構文的に等値されていること。つまり、花に対して空により根本的な次元としての優位性は与えられていないということである。
いま一つは、最初の「花」と二番目の「花」は同じものを指していない、二つの「空」についてもそれは同様、ということである。つまり、花であれ、空であれ、「花」という名は花ではなく、「空」という名は空ではない、ということである。
ここまでは、ほぼ賴住光子『正法眼蔵入門』の解釈を簡略化して言い換えただけである。
しかし、私はこの解釈に疑義を挟まずにはいられない。なぜなら、「花またかつて花ならず、空またかつて空ならず」は、万有の恒常的あるいは非時間的自己同一性を端的に否定していると読めるからである。したがって、上掲の解釈からの次のような展開に私は同意できない。
表現以前とは、つまり、言語化以前、分節化以前ということである。先述のように、仏教においては、存在とは意味付けられ表現されてはじめて存在となるということをふまえるならば、それは、存在以前ということができる。つまり、このような「空そのもの」の次元に立脚して、存在は成立しているのである。だから「花」は、つねに言語表現としての「花」にはおさまりきらずにはみ出していく。同様に、「解脱」において体得された「空そのもの」も、「空」という固定化された言語表現からはみ出す。この意味で、「花は花でない」「空は空でない」という言葉が正当性を持つ。
「花」「空」という言葉による世界の分節化以前に、花そのもの、空そのものの次元などありえないはずである。言語表現におさまりきらない〈そのもの〉という実体性あるいは次元は、すべて言語化が生じさせる仮象あるいは幻想に過ぎないと考えるべきではないか。〈そのもの〉の探究こそ煩悩のなせる業ではないのか。〈そのもの〉性の想定という誤謬からの解放こそが「解脱」ではないのか。