一九一七年、二十歳のカール・レーヴィットは、イタリアでの俘虜生活から「祖国」ドイツに復員し、ミュンヘン大学に籍を置く。そこで、哲学と並行して生物学を学ぶ。当時のドイツの大学では、特にフンボルト的精神を基本理念としていた哲学部では、哲学と並行してもう一つの学問分野を履修することが強く推奨されていた。今日でも、ドイツの大学システムでは、二つの異なった分野を同時に履修することが制度的に可能であるのも、その精神を受け継いでのことなのであろう。
レーヴィットの場合、単に並行履修が推奨されていたからという理由だけでたまたま生物学を選んだわけではない。二年後、フライブルク大学に転籍した後も、生物学を履修し続けている。
ミュンヘン大学では、植物学者カール・フォン・ゲッベルの講義に出席していたが、フライブルク大学では、一九三五年にノーベル生理・医学賞を受賞することになる発生学者ハンス・シュペーマンの指導を受けている。しかも、きわめて優秀は成績を収めている。
フライブルクでレーヴィットはハイデガーと出逢い、師と仰ぐことになる。この出逢いがレーヴィットを哲学へと決定的に方向づけたのである。ところが、興味深いことに、一九二三年八月二三日付のレーヴィット宛の書簡で、ハイデガーは、自分の最初の弟子の一人に向かって、むしろ生物学の道に進むべきではないかと問いかけている。
それに対して、それまで進路の選択に迷っていた弟子は、シュペーマンの指導下で胚の「堕胎」についての実験を続けることは喜んで続けるが、それは哲学において自分が「出産」することを妨げないかぎりにおいてであると答えている。この答えが哲学者レーヴィットの「産声」となる。