『沙石集』は、ふと思い出しては手に取る一書として書棚の取りやすいところにいつも並んでいる。日本中世において生きられていた信仰の形が生き生きと描かれている説話を読むのは愉しい。
その著者として、無住道暁(一円)は、日本文学史上名高い。ところが、その仏教思想に対する評価はあまり芳しくない。無住の仏教思想論である『聖財集』については、いまだに本格的な研究が少ない。説話のおもしろさに比して、その思想は雑多で、独創性がなく、研究する価値に乏しいと考えれられてきたからである(末木文美士「思想家としての無住道暁」『仏教からよむ古典文学』角川選書、2018年所収。私が参照しているのは同年刊行の電子書籍版)。
従来の仏教思想研究は、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たち(親鸞、道元、日蓮など)を中心としており、その他は不当なまでに低く評価されてきた。これは末木氏がその数多い著書の中で繰り返し主張しているところである。
特に、無住のような融合型の思想は、はじめから不純なもの、不徹底なものとして退けられ、禅なら禅、浄土なら浄土と、ひとつの行や信に徹底した態度が高く評価されてきた。『沙石集』冒頭に見られるような神仏習合思想も、したがって、否定的に見られてきた。
そうした一面的な評価は、今日次第に修正されつつあり、無住の思想も改めて注目されるようになってきているという。
末木氏の無住についての所説を読んでいて私が特に興味をもったのは、無住の思想の中に一種のプラグマティズムを読み取ることができることである(末木氏自身がこの語を使っているわけではなく、これは私の読み方であることをここで断っておく)。
無住の生きた鎌倉時代には、「煩悩即菩提」という大乗仏教のスローガンの下、煩悩それ自体を即肯定するような行き過ぎた本覚思想さえ登場していた。それを無住は否定する。凡夫の煩悩にまみれた状態を人間のありのままの姿としては認めつつ、あくまで悟りへ向かって修行しなければならないという修行重視の立場を取る。ここまでは、むしろ正統的で、なんら驚くにあたらない。
興味深いのは、単純に煩悩からの離脱を目指すのではなく、悟りに向かって進んでいくエネルギーとして煩悩を利用しようという発想である。「世間に財利を求むる欲心」があること、これは紛れもない人間的事実だ。しかもその欲心は熾烈でさえある。ならば、そのその熾烈な貪欲さをもって聖なる財、つまり仏の教えを追求せよ、というのだ。煩悩が激しけれは激しいほど、それを聖財の追求に転換して用いるときの有効性も大きい、というわけである。「煩悩に安住するのでもなく、かと言って、煩悩を全面的に否定するのでもなく、煩悩を巧みに悟りに向う方向に用いていこうというところに、無住のしたたかさと真摯さの両面を見ることができる」(末木前掲書)。
『聖財集』の中で、無住は、しばしば「始覚」という言葉を用いている。「始覚」は「本覚」に対するもので、段階的に悟りに向かっていく立場を指す。本覚思想が盛んだった時代に、始覚の思想を主張するものは他にあまり見当たらず、これは無住の思想の大きな特徴である。説話集『沙石集』もこの思想的基盤から生まれきたと末木氏は考える。
悟りという最終目的のために煩悩の善用を可能にする方法論としての始覚思想は、一種のプラグマティズムとみなすことができるのではないだろうか。