内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

奈良時代における日本最初の並木道を想像する

2018-05-27 18:07:59 | 読游摘録

 井上靖の『天平の甍』の主人公に選ばれたことによってその名が広く知られるようになった東大寺の僧普照は、天平五年(733)に遣唐使に随行する留学僧として唐に渡った。その普照が鑑真和上と共に日本に戻ってきたのはその二十年後のことである。
 しかし、今日の記事で話題にしたいのは、このあまりにも有名な歴史的出来事ではなく、先日の記事で紹介した武部健一著『道路の日本史』に言及されている、普照のもう一つの功績についてである。
 普照の在唐中、唐の玄宗の開元二十八年(740)正月、長安・洛陽を結ぶ道路(両京道路)と両京それぞれの城中の苑内に果樹を植えるように詔勅が出された。普照は、唐の都の内外の街路樹を見聞したことであろう。
 普照が帰国して六年後の天平宝字三年(759)六月二十二日、次のような太政官符が公布された。

まさに畿内七道諸国駅路の両辺にあまねく菓樹を植うるべきこと

 この太政官符は普照の願いを入れて公布されたものである。これが日本における道路植樹のはじまりである。
 普照の奏状には、「道路は百姓(人民)が絶えず行き来しているから、樹があればその傍らで休息することができ、夏は暑さを避け、餓えれば果樹の実を採って食べることができる」とある。
 普照の発案は、平安時代にも継承される。平安時代の法令集である『延喜式』の雑式に、「凡そ諸国の駅路の辺に菓樹を植えること。往還の人をして休息を得さしめ、若し水の無き処には便を量りて井を掘れ」とある。
 『道路の日本史』の一頁ほどのさりげない記述を読んで、初夏、奈良の都と地方を結ぶ街道を行き交う人びとや、その街道に沿って植えられた新緑眩しい樹の下でしばし休息する人たちや、彼らの旅の疲れを癒やすように頬を撫でたであろう爽やかな風を私は想像した。