今日の記事のタイトルは、金子大栄『歎異抄領解』(全人社、1949年)の中の言葉である。私はこの言葉を竹内整一の著作で去年知ったばかりである。金子大栄については、岩波文庫版『歎異抄』『教行信証』の校注者としてその名前を見かけたことがあるくらいで、その人と思想および著作については何も知るところはなかった。
竹内整一は、複数の著作の中でこの金子の言葉を繰り返し引用している。この言葉をほぼそのままタイトルとした『花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想』という著書さえある(角川選書、2011年刊)。その出版は東日本大震災直後のことだった。
『日本思想の言葉 神、人、命、魂』(角川選書、2016年)の第四章にもこの言葉をタイトルとした節がある。そこには、この言葉を出発点として、生と死についての考察がジャンケレヴィッチや西田幾多郎など様々な著作家からの引用を織り交ぜながら展開されている。
竹内によれば、金子自身は、この言葉について、あまり詳しく説明していない。それでも、この言葉の背景に、親鸞思想や広く仏教思想、さらには死者に対するある普遍的な考え方・感じ方のようなものを見て取ることができるという。
「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ」とは、浄土真宗の僧であった金子大栄(1881-1976)の言葉である。人は死ぬことによって肉体的には消えても、その人の死をかなしみ、「いたみ」「とむらう」者がいるかぎり、その人の「花」は散らない。また逆に、その「花」は、「いたみ」「とむらう」者に、あたたかい生きるエネルギーを与えるという不思議な力をもっている。死者が「仏」になるとはそういうことである。
私には竹内のこの説明が金子大栄の言葉の解釈として妥当なのかどうかはわからない。『歎異抄領解』の文脈に即して読めばその通りなのかも知れない。ただ、その文脈を離れて、この言葉だけを読んだだけでも、それは私に多くのことを考えさせる。
個々の花びらは遅かれ早かれ散るほかはない。しかし、形あるものにおいて無限に繰り返される生滅を通じてこそ、花の「いのち」は生き続ける。年々去来する花を見て、私たちはそう覚知することができる。
しかし、この「花」が人のことである場合、それこそ他人事ではありえない。それはまずもって、生者が死者を「いたむ」「とむらう」という具体的経験を通じて、「いのち」について真剣に考えさせられるとき、散らぬ「花」とは何か、という問いとして痛切に身に迫ってくる。言い換えれば、死者と生者との「響存」はいかにして可能か、という問いとして。