勇敢な志願兵であった青年レーヴィットは、たちまちに軍功をあげ、階級を上げる。一九一五年五月、イタリアがオーストリアに宣戦すると、レーヴィットの所属する連隊はオーストリア・イタリア国境へと移動する。そこで兵員三〇名からなる一小隊の隊長となる。後の回想によれば、前線生活全体を通じて、人種の違いを兵士たちからも将校団からも感じたことはなかったという。
しかし、イタリア前線で重傷を負い、その年の八月には戦争捕虜となってしまう。その後、一九一七年後半まで、約二年間、イタリアで俘虜としての生活を送ることになる。この俘虜生活が、その後レーヴィットが生涯を通じてもち続けることになるイタリアへの愛を懐かせる。
レーヴィットにとって、イタリアのイタリアたる所以は、いわばその生得的な人間らしさ(humanitas)、人間的な弱さをそれとして本能的に受け入れる受容性にある。それは、レーヴィットにとって、ドイツにおいては、およそ無視されていた感性であった。
『共同存在の現象学』(岩波文庫)巻末の熊野純彦による解説から、このイタリア的なものへの愛に関わる一節を、レーヴィットからの引用も含めて、引こう。
後年のレーヴィットの見るところでは、「一八年ものあいだファシズムに鍛えられたあとでさえ、ローマでも、いたるところのちいさな町村でも、イタリア人はだれも北方においてよりも人間なのであって、個人の自由を尊重し、また人間的な弱さをも受け入れる、天賦の才能を喪っていない。ドイツ人はこの人間的弱さを追放しようとしているのである」(『私の生活』)。レーヴィットそのひとのうちにも、人間性の悪を見つめつづける強靭な精神と、人間存在の弱さを受容しようとする寛容な精神が、となりあわせて棲みついている。(442-443頁)。
十八歳から二十歳にかけてのイタリアでの俘虜としての経験がレーヴィットの哲学の情感的基底を育んだと言っては言い過ぎだろうか。