内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「世界すなわち〈きみ〉」の哲学

2018-05-17 22:04:47 | 哲学

 「戦争と哲学者」というテーマは、それだけで叢書になるくらいの大きな主題です。昨日までの四回連続の記事は、そのほんの小さなサンプルに過ぎません。今回は、三木清のことを取り上げた記事がきっかけで、半ば行きがかり上少しこのテーマに触れただけで、今はこれ以上展開させるだけの準備はありません。そもそも時間がありません(誰か、「同情するなら、時間をくれ!」 古っとか言わないこと)。
 まあでも、こういういい加減な切り上げ方が許されるところが(というか、自分で勝手に自分を許しているだけのことですけれど)ブログのいいところじゃありませんか。もし、続きを期待されていた方がいらっしゃったとすれば(多分いないと思うけれど)、ごめんなさいね。誠に勝手な言い分でございますが、あとはご自分でご研究ください。
 さて、レーヴィットの『共同存在の現象学』からは、その巻末の熊野純彦による「解説」ばかりを引用させてもらって、肝心の本体の方にはまだまったく触れていませんでした。ほんの挨拶程度ですが、少しだけ触れておきましょう。
 本書は、ハイデガーを指導教授として、その師の主著『存在と時間』が出版された一九二七年に提出された教授資格請求論文が元になっています。そこには、「師に対する共感と反撥が交錯」しています(「解説」435頁)。ハイデガーの『存在と時間』に対する根本的な批判を含んでいる本書は、それ自体が本格的な研究の対象となりえます。残念ながら、それはまったく私自身の手にはあまることで、その中から「例外的にロマンティックな一節」(「解説」)を引用するに今はとどめざるをえません。

共同世界がもっとも明示的なかたちで私の世界と関係づけられるのは、共同世界がひとりの特定の他者と、つまり《きみ》と合致し、ひとりの〈きみ〉が〈私〉にとっての全世界をそのうちに包摂してしまう場合である。その場合にのみ、フォイエルバッハにならって「世界すなわち〈きみ〉」と語ることができる。《きみ》がそのとき〈私〉にとって代表するのは、たんに共同世界のすべてではない。全世界である。(60頁)

 「世界すわなち〈きみ〉」なんて、ハイデガーには書けなかった(若く美しかった愛人ハンナの耳元では囁いたかもしれぬが)。間柄の倫理学の和辻もこうは言わなかった(多分愛妻にも言わなかっただろうなぁ)。「世界すなわち〈きみ〉」の哲学、どなたか引き継がれてはいかがでしょうか。