「居場所」という言葉が気になりだしたのは、修士一年の演習で村上靖彦氏の『ケアーとは何か』(中公新書、2021年)を読んだことがきっかけだったことはこのブログでも話題にし、以後、村上氏が言う意味での「居場所」のことを何回か記事にしてきました(今年9月14日の記事とそれ以降の一連の記事をご参照ください)。
学生たちも「居場所」という言葉にこちらの予想以上に強い関心を示し、演習レポートのテーマに選んだ学生も複数いるし、テーマと密接に関連する概念として言及が見られるレポートがいくつもあしました。
村上氏の多数の著作の中で繰り返される「居場所」の説明を読めば、居場所がどれほどそれぞれの人にとって大切かよくわかるし、それは日本人に限られたことではなく、フランス人にとっても大切だし、どの国で生きていようと、だれにとっても大切に違いない普遍性をもったものであるということも納得できます。
ところが、その意味での「居場所」をいざフランス語に訳そうとすると、一語では訳せません。場所を意味する lieu という名詞と別の名詞を de という前置詞で繋いでみても、どれも村上氏がその大切さを繰り返し力説する「居場所」にはピッタリとは重なりません。そこがまたこの言葉の面白いところでもあります。
私自身がどれほど使っているかと、このブロクの記事内で検索してみたら、自分でも驚いたのですが、ブログを始めた2013年からざっとかぞえただけ数十回は使っていました。その中には引用文中の用例も含まれていますが、それらを除いても、二十回は下りません。しかも、それらの用例は、いずれも村上氏が言う意味での「居場所」とどこかで重なっているのです。
つまり、問題としての「居場所」は、村上氏の本を読む前から、私にとってもかなり切実な問題であったことに今更ながら気づかされた格好です。
そんなことがあり、他の人たちの文章の中ではどんな文脈でこの語が使われているか調べてみる気になりました(いずれ授業のネタとしても使えるだろうという目論見もあります)。といっても、調査対象を広げすぎては収拾がつかなくなるおそれが多分にあります。ネット上にはもう無数といってよい用例があることでしょう。新聞記事に限ってもまだ広すぎます。
そこで、手近なところから始めようと、「あれ、なぜここで使われているの?」と、最近ちょっと気になった用例を拾い上げてみることにしました。しかも、外国語文献の日本語訳に限ります。
今日取り上げるのは、一昨日の記事で引用した『ティマイオス』の一節のなかの用例です。その引用の中に、「生成するすべてのものに居場所を提供し」とあります。ギリシア語原文は « ἕδραν δὲ παρέχον ὅσα ἔχει γένεσιν πᾶσιν » (52b) となっていて、最初の語が ἕδρα という名詞の対格で παρέχω という動詞の目的語になっています。この ἕδρα が「居場所」と訳されているのです。このギリシア語は「指定された場所」とか「在処」という意味ですから、「それぞれのものに相応しい場所」という意味で「居場所」を訳語としてこの文脈で使うのは妥当な選択だとも思われます。ただ、生成消滅するすべてのものについて「居場所」という言葉を使うのには若干の違和感を覚えはしますが。
ちなみに、Luc Brisson の仏訳では emplacement と訳されていて、これは「用地」という意味で、「居場所」という語に感じられるような生命の「ぬくもり」はまったくありません。ネット上で閲覧できる別の仏訳では théâtre と訳されています。これは「劇場」とか「舞台」とか「現場」という意味ですから、emplacement と違って、ダイナミズムが感じられますね。個人的にはこちらのほうが好きです。
明日、大晦日の記事では、モンテーニュの『エセー』の日本語訳のなかの「居場所」を取り上げますね。
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