今日の記事は、明日以降に考えてみたいことの一つの手がかりを与えてくれる、『ニコマコス倫理学』第二巻「人柄の徳の総論」第一章の冒頭を引くだけである。アリストテレスの講義を親しみのこもった現代日本語に移すことに成功している光文社古典新訳文庫版(渡辺邦夫・立花幸司訳 2015年)から引く。本章は、訳者によって、「人柄の徳は、人が育つ過程における行為習慣の問題である」と見出しが付けられている。この「人柄の」(人柄に関わる)が êthikê の訳である。
徳は二種類あり、知的な徳と人柄の徳がある。そして知的な徳はその大部分が教示によって生まれ、教示によって伸びてゆく。それゆえにそれは、経験と時間を要する。他方、人柄の徳は[行為の]習慣から生まれるものである。[中略]このことから、人柄の徳のどれひとつとして、生まれつき自然にわれわれのうちに生じているというわけではないこともまた、明らかである。というのも、自然の力にとってあるものの何ひとつとして、現状と違うように習慣付けられることはありえないからである。[中略]それゆえ、もろもろの徳は、生まれつき自然にわれわれに内在しているのでもなければ、自然に反してわれわれに内在化するのでもない。われわれは徳を受け入れるように自然に生まれついているのではあるが、しかしわれわれが現実に完全な者となるのは、習慣を通じてのことなのである。
「われわれは徳を受け入れるように自然に生まれついている」ということと私たちが生まれながらに情緒の中に生きているということとの関係をこれから考えてみたい。