内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

情緒論素描(十九)― かなしき風土

2020-10-14 15:29:46 | 哲学

 『ベネッセ 全訳古語辞典』(改訂版 2007年)は大変優れた学習古語辞典で、その最重要語欄は授業でよく参照する。
 「かなし」は、当然、最重要語の一つである。見出しのひらがな書きの左脇に「愛し・悲し・哀し」と漢字が充てられた表記が三つ縦に並んでいる。その下の基本義は、「身近なものに対する感情が痛切に迫って心がかき立てられるようす」となっている。その下の語義派生図は、「愛し」と「悲し・哀し」とに二分され、前者の語義は、副詞的用法を除くと、次の二つに分けられている。①かわいい。いとおしい。②心が引かれる。おもしろい。後者の語義は、これも副詞的用法を除くと、次の三つに分けられている。①切ない。嘆かわしい。②かわいそうだ。気の毒だ。③(経済的に)貧しい。気苦労が多い(これは中世以降の用法)。
 類語比較では、「かなし」と「いとほし」が比較されている。共通点は、「自分に身近な人を気の毒だと思う気持ち、また、かわいいと思う気持ちを表す」。「かなし」固有の意味は、「不可能の意味を表す補助動詞「かぬ」と同じ語源で、身近なものに対する押しとどめがたい、切ない感情を表すのがもともとの意味といわれる」と説明されている。「いとほし」は、「「いたはる」「いたはし」と関係のあることばといわれ、「心を痛める」というのがもともとの意味である」。
 「愛し」の例として、万葉集巻十四の中のよく知られた東歌を一首挙げておこう。

多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだかなしき(三三七三)。

 後者の例としては、源氏物語の夕顔の巻から「別れといふもの悲しからぬはなし」を引いておこう。
 大野晋編著『古典基礎語の世界』(角川ソフィア文庫 2012年)の次の記述は、「かなし」の意味のより深い理解の助けになる。生きている人間に対する愛情を表す二例「わがかなしと思ふむすめを」(夕顔)、「いづれも分かず、うつくしくかなしと思ひきこへたまへり」(若菜上)を挙げた後、こう述べられている。

これらのカナシには、「愛しい」とか「心から可愛い」とか「愛着の念が強い」とかいう訳語が与えられている。これは死別とは全く異なって、生きている人に対する感情である。死に直面してのカナシは相手に対する深い愛着があればこそ生じる。生きている子供達に対するカナシも、強い愛情、愛着がある点で共通である。単に可愛いというのではなく、相手を失ったらどうしようという恐れや、その子供に自分の全てを尽くしてもなお及ばないというせっぱ詰まった気持が底にある。カナシはそれを表明している。その点で、この二つ、悲哀と愛着のカナシは基底が同一である。

 悲哀と愛着とカナシの基底が同一であることを示す近代短歌の一例として、若山牧水の次の歌を挙げたい。

ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみてたなびきており

 長男として家を継ぐことを望まれているにもかかわらず、家族を放り出して、東京へ出、その後は一切音沙汰なしだった牧水は、父危篤の報を受けて急ぎ帰郷する。親族会議は糾弾会議の様相を呈した(永田和宏『近代秀歌』より)。そんな状況の中でこの歌は詠まれた。幼いときから見なれた故郷の山に感ずるこの「かなしさ」は、悲哀と愛着との両者が分かち難い心底から自ずと湧き起こって来た感情であったろう。牧水にとって、故郷は、「かなしき風土」であったに違いない。