歌人でもある細胞生物学者永田和宏が編んだ『近代秀歌』(岩波新書 2013年)には、私にとってもとても「なつかしい」歌が多数収められていて、折に触れて、本書の目次、百首一覧、「本書で一〇〇首に取り上げた歌人」を見ては、気の向くままに選歌とその鑑賞を読んでいる。この書で近代短歌として取り上げられているのは、落合直文(1861-1903)から土屋文明(1890‐1990)までの明治・大正・昭和に詠まれた和歌である。
本書の「はじめに」で、著者は、藤原俊成の『古来風体抄』に言及して、こう述べている。
藤原俊成は、その著『古来風体抄』のなかで、桜の花を見てそれを美しいと感じるのは、私たちが花を詠んだ名歌を数多く知っているからなのだと喝破した。普通は花が美しいから感動する、歌に詠むと考えるだろう。しかし俊成は、そうではなく、私たちが花を見て美しいと感嘆するのは、私たちの心の奥深くに刷りこまれた、花を詠った歌の数々によって、花を美しいと感じる感性がおのずから形成されているからなのだと言うのである。はるか昔に、パラダイムシフトとでも形容したくなるような、このような透徹した透視力をもった歌人がいたことに感動を覚えるのである。
ここで言及されている『古来風体抄』の箇所は次の一節であろう。
かの古今集の序にいへるがごとく、人の心を種としてよろづの言の葉となりにければ、春の花をたづね、秋の紅葉を見ても、歌といふものなからましかば、色をも香をも知る人もなく、なにをかは本の心ともすべき。
この箇所にかぎって言えば、過去に詠まれた歌の知識が花の美の認識に必要だと言っているのではない。歌を詠むことによってはじめて色や香を認識できるのだと言っている。詠歌が美の認識方法だということだ。もちろん、良き歌を詠むためには過去に詠まれた名歌の知識は必要だ。だが、それは花の色香の認識の必要条件ではあっても、十分条件ではない。
より根本的な問題は、歌を介して認識された自然の美は、もはや所与の自然ではないということである。それは詩化された〈自然〉であり、自然と私たちとの間に形成された詩的空間である。自然を愛でる歌の膨大な蓄積は、「日本人の心情のもっとも深いところで、我々の情緒を知らず知らず規定してきた」(永田和宏『近代秀歌』)ということは、それらの歌に詠まれた〈自然〉が所与としての自然に取って代わったということであり、自然詠によって媒介された「二次的自然」(ハルオ・シラネ『四季の創造 日本文化と自然観の系譜』角川選書 2020年)によって自然が疎外されたということである。