内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

情緒論素描(十一)― 気色・眺め・情景論への展開 ①

2020-10-02 23:59:59 | 哲学

 「けしき」という言葉は今日も日常的に使われる言葉であるが、いつのころからか、アイドルたちが舞台の中央に立って観客席に向かって「ここから見えるけしき」というように使うようにもなり、そのような用法に眉を顰められる方々もいらっしゃるようだ。それは、おそらく、観客たちを風景のように見なす驕り高ぶった上から目線の態度の発露だと思われてのことではないかと推測する。ところが、この語の元の意味まで遡ると、彼女たちの用法は案外まっとうだと言えなくもない。
 この語は、すでに中古のはじめから頻用され、和語として認識され、それゆえ和歌にも用いられたが、もともとは「気色」と書く漢語であった。これを敢えて和語に置き換えれば、見てとらえることができる「ものの(ほのかなる、あるいは、はかなき)あらわれ」ということで、自然の景物ばかりでなく、人の様子・しぐさについても用いられた。
 『古典基礎語辞典』の「けしき」の項の説明を読んでみよう。

 漢語「気色」を呉音で読んだ語、中古のはじめから、和文中でよく使われ、和語としてとらえる意識が強かった。視覚でとらえた具体的な様子を指す語。自然界については、それと見てとれる自然の動き、人間については、多くその時その場の感情が外に出て見えた具体的な様子をいう。
 中世以降、「気色」の漢音読みであるキショクが和語化され、人間の気持ちに限定されてくると、ケシキは自然についてのみ使われるようになって、「景色」という当て字でも書かれるようになる。

 「けしき」は視覚的に何かを表わしている現れあり、単なる対象として観察されたものの外観ではない。「けしき」には、それが自然の景物であれ、人の様子であれ、情が表わされている。しかし、「けしき」は、長続きするものでもなく、あからさまに露出されたものでもない。どちらかと言えば、現れたかと思えば消えていくものである。そこから「わずかばかり」という副詞的な用法も生まれた。

秋風は気色吹くだに悲しきにかき曇る日は言ふ方ぞなき

 この歌は、『和泉式部日記』中の一首だが、ここでの「気色」は、「秋風はわずかに吹くだけでも」の意で用いられている。
 「けしき」は、自然の自体的な形状のことではなく、情の彩りであり、情緒なのである。