内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

情緒論素描(十二)― 気色・眺め・情景論への展開 ③

2020-10-04 12:47:30 | 哲学

 「情景」という言葉は含蓄深い言葉だと思う。
 情と景がそれぞれ、感興とけしき、心のはたらきと自然の風景とを指す場合もあるが、その場合、景情一致という場合の景と情とほとんど意味は違わない。しかし、二つの異なった対象を指し示す漢字二つがただ組み合わされたということではもちろんない。両者に密接な対関係があるからこそ生まれた言葉であろう。
 「森の情景」、「子供の情景」などの用法においては、明らかに情と景とは不可分である。情景において、情はまさに景であり、景はまさに情である。ある景を見ている私と私が見ているその景とが一つの情景を成している。見る私がそこにいなければ、情景もない。しかし、情景は私一人の心象風景ではない。情景が私をある情緒で包み込む。
 情景という一語は、それだけで、主観にも客観にも還元できない、そもそもそのような構図では捉えられない〈間〉に情の広がりがあることを示している。情景は、私たちに何かしみじみとした情感をもたらすものである。それをいつまでも見ていたい、そこにいつまでも居たいという懐かしさが情景を満たしていることもある。
 無心に遊ぶ子供の姿を見ていて自ずと情が湧くとき、その湧き出る情は私だけのものではない。その情は、私一人の心の底よりももっと深いところから湧き出し、情景を満たす。だから、情景において、人は人に出会うことができる。