吉増剛造氏は『詩とは何か』のなかで他の人の作品を引用するとき、それらを声に出して読んでいます。紙面、いや、電子書籍版の画面表示から、その声が聞こえてくるわけではありませんが、声に出すという所作を吉増氏がその都度行っていることは確かです。
私もそれらの作品を声に出して読んでみます。吉増氏の文章を読んでいるとおのずとそう誘われるのです。それは字面を眼で追うだけの黙読とは別の、もっと生き生きとした作品との接し方です。いえ、接し方というのは適切ではなく、作品の立ち上げ方、とでも言ったらいいでしょうか。
「声に出す」というのは含蓄のある言い方だとかねてから思っていました。「声を出す」のとは違います。それは、言葉を声が響く音響空間に引き出す、ということです。声に出して読む私もその空間の中にいます。私は私の肉声を私の耳で聴きます。そうすることでしか体感できないことがあります。録音して聴くのも面白い体験ですが、それはまた別の話です。他の人による朗読を聴くのとも違います。
昨日、夕方から飲み始めて宵の口には眠りに落ちてしまいました。十一時過ぎに目が覚めました。起き出してエミリー・ディキンソンの作品を声に出して読んでみました。フラマリオン社の英仏対訳版全詩集を開き、両語で読んでみました。
先週から大学を除く公教育機関はすべてヴァカンスに入ったこともあり、あたりは静まりかえっています。物音ひとつしない部屋に自分の声が響きます。英語の原詩、その仏訳、それぞれの言葉と私の身体が共振します。意味がわかるわからないはまた別の話です。紙面に印刷された言葉が声に出されることでおのずから立ち上がって来ます。声に出して読む時の響きの一回性によって言葉がそのときその場で賦活され、その賦活された言葉によって私の身体も(再)活性化されます。