吉増剛造氏が『詩とは何か』の中で片仮名書きに触れている箇所を昨日の記事の中に引用しました。私は実践したことはありませんが、もしやってみたらどんな感覚をもたらすでしょうか。吉増氏がいう「別の血液が流れる」とはどのような感覚なのでしょうか。試すのはまたの機会にして、読む側から平仮名書きと片仮名書きの違いについて少し考えてみました。
小説や漫画などで、外国人が日本語を話している部分を片仮名書きにすることがありますね。それは話されている日本語が日本人が話す日本語とは少し違っていることを視覚的に示すという効果があります。他には、ある言葉の音は聞き取れても、それが何を意味しているかわからないときに使われます。例えば、映画『かぐや姫の物語』で、翁が相模をかぐや姫に紹介するとき、「高貴の姫君」「宮中」という言葉を使い、それを聞いたかぐや姫が意味がわからないままにそれらの言葉を繰り返す場面の日本語字幕は、「コウキノヒメギミ? キュウチュウ?」となっています。他の用例として、どの小説だったかもう覚えていませんが、主人公の独白部分が漢字片仮名書きになっている作品がありました。さらに、漢字で書くのが普通の語を片仮名にすると、本物とは似て非なるものを意味することもあります。例えば、「哲学」のかわりに「テツガク」と書くとき、そういう効果が生まれることがあります。
これらの例は、一言でまとめれば、本来は漢字あるいは平仮名で書くところを片仮名にすることで生じる表現の異化作用と言うことができるでしょう。
ところが、片仮名の使用は、戦前、明治期、さらにはそれ以前の時代には、むしろもっと広く行われていました。
古典の中にも漢字片仮名書き版があり、例えば、『方丈記』の現存最古の写本、大福光寺本(一軸)や岩波古典文学大系版『愚管抄』の底本、島原本がそうです。それ以降も、日記や覚書や備忘録の類には漢字片仮名書きは珍しいことではありませんでした。明治に入ってからも小学校の教科書は片仮名書きから始まっており、子どもたちが最初に学習したのは片仮名でした。片仮名書きが主に外来語の音写に限定されるのは一九四七年以降のことで、それまでは片仮名書きは日常的にもっと広く行われていたようです。
通常平仮名を用いるところを片仮名にすることによって表現にある種の異化作用が起こるのは、戦後、一般的な日本語表記において片仮名書きの範囲が狭められたことによるとすれば、それは戦後になってはじめて発生した現象だということになります。そこまでは言えないかも知れませんが、私たちが今日通常漢字平仮名書きにするところが漢字片仮名書きに変換されている文章を読むときに感じる違和感、抵抗感あるいは読みにくさは、もしかすると、まだ見ぬ日本語の別の世界の入り口に立たされていることから来るのかも知れませんね。