8月1日から始まる集中講義「現代哲学特殊演習➁」のタイトルは「主体の考古学」である。2011年に初めてこの演習を担当したときと同じタイトルである。根本問題は同一だが、11年間にこの問題について私の中に蓄積されたデータも相当な量にのぼり、今回はそれらを適宜援用しながら再度同じ問題へのアプローチを試みる。
基本的には古代ギリシアから歴史的順序にしたがって問題を辿り直す。だが、これをまっとうにやったら通年の授業でも数年はかかる。だから、たった5日間(毎日3コマ)のこの演習では、歴史的通覧は要点のみを押さえた駆け足になる。
出発点として、学生たち自身が「主体」という言葉をどのように使っているか、「主観」とどのように区別しているか問うところから演習は始まる。この二つの問いに対する彼らの反応に応じてそれ以降の展開を調整する。
次に、近現代の文章で、哲学以外の分野で「主体」ということばがどう使われているか、その実例をいくつか見ていく。それらの実例に特に決まった順序はないのだが、例えば、森田真生の『数学する身体』(新潮文庫 2018年 原本 新潮社 2015年)の以下の箇所などは「主体とは何か」という問題を考えていく上での一つの手がかりになる。
人間が人工物を設計するときには、あらかじめどこまでがリソースでどこからがノイズかをはっきりと決めるものである。この回路(異なる音程の二つのブザーを聞き分ける回路)の例で言えば、一つ一つの論理ブロックは問題解決のためのリソースだが、電磁的な漏れや磁束はノイズとして、極力除くようにするだろう。だが、それはあくまで設計者の視点である。設計者のいない、ボトムアップの進化の過程では、使えるものは、見境なくなんでも使われる。結果として、リソースは身体や環境に散らばり、ノイズとの区別が曖昧になる。どこまでが問題解決をしている主体で、どこからがその環境なのかということが判然としないまま混じりあう。(38頁)
このテキストから、主体と環境との関係の可変性、主体の可塑性、リソースとノイズの区別の相対性、人工物作成と進化の過程との違い等の問題が引き出される。そこから、主体概念を問い直していく。