『数学する身体』の中で「主体」という言葉が出て来るもう一つの重要な箇所は、岡潔の数学観が主題となっている一節である。岡潔の「絵画」というエッセイからの引用の中に「主体」という言葉が出て来る。ただ、森田氏は岡の本文を少し省略して引用しているので、それを復元して下に掲げる。
数学の本質は禅師と同じであって、主体である法(自分)が客体である法(まだ見えない研究対象)に関心を集め続けてやめないのである。そうすると客体の法が次第に(最も広い意味において)姿を現わして来るのである。姿を現わしてしまえばもはや法界の法ではない。
禅師とは、上掲の段落の直前の段落で言及されている禅師のことだが、岡はその禅師の名前を忘れてしまったといって、禅師とその弟子との問答の内容そのものをその段落で紹介している。上の文章も難しいが直前の段落の文章も難しい。
だからよくわかったとはとても言えないが、上掲の文章が言いたいのはおよそ次のようなことではないかと私は思う。
考える主体である私が客体である研究対象に注意を集中していると、客体が次第に思量を満たし、ついには考える主体である私は客体とひとつになり、そのとき主体・客体という区別は無効となり、客体であった対象が対象であることを止めてそれ自体として十全にそこに現成する。
ただ、こう言い換えただけではまだ抽象的で具体性に欠けていてよくわからない。森田氏の読み解きについていこう。
数学においては人は、主客二分したまま対象に関心を寄せるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ。
「なりきる」ことが肝心である。これこそ、岡が道元や芭蕉から継承した「方法」だからだ。芭蕉が「松のことは松に習え」と言い、習うというのは「物に入」ることだと言ったのも、これである。
道元禅師は次のような歌を詠んでいる。
聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水
外で雨が降っている。禅師は自分を忘れて、その雨水の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識にのぼらない。ところがあるとき、ふと我に返る。その刹那、「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが本当の「わかる」という経験である。岡は好んでこの歌を引きながら、そのように解説する。
自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元や芭蕉から継承し、数学において実践した方法である。
なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通い合う情があるからだ。人は理でわかるばかりでなく、情を通わせ合ってわかることができる。他の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。
ところが現代社会はことさらに「自我」を前面に押し出して、「理解(理で解る)」ということばかりを教える。自他通い合う情を分断し、「私(ego)」に閉じた mind が、さも心のすべてであるかのように信じている。情の融通が断ち切られ、わかるはずのこともわからなくなった。
長い引用となったが、この文章は教室で学生たちとゆっくりと読みながら議論したいと思っている。このような「わかる」経験は誰でもできることなのだろうか。とすれば、それはどのようなときにどのようにしてなのか。とりわけ「わかる」と「理解する」の違いはどこにあるかという問題は私がフランスの大学の授業で毎年必ず取り上げる問題であり、私自身にとってもとても大切な問題である。