日本語の表記について今日も考えました。今日のお題は句読点です。これが難しい。そして、「実に面白い」(福山雅治のガリレオ調でお願いします)。
このブログを書くときにも、どこで「、」つまり読点を打つか、かなり神経を使っています。個人的な原則として、読点は少なければ少ないほどいいと考えています。読点がなくても読み手がすらすらと読み下せ理解できる文が私の理想です。他方、敢えて読点を多用するときもあります。それはすらすら読んでほしくないときです。「ちょっと待って」「ここで立ち止まって」と読み手の方にお願いしたいとき、打たなくても文法的には誤解の余地のないところにも敢えて読点を打ちます。
人の文章を読むときも読点が気になります。仮に読点以外の字面はまったく同じ文でも、読点の打ち方でリズムや呼吸が変わるからです。どうしてここで読点を打つのだろうと考え込んでしまうこともあります。文学作品の場合、特に詩作品の場合、読点の打ち方が作品の命、これはちょっと言いすぎかも知れませんが、少なくとも作品の本質に関わりのない単なるアクセサリーではないことは確かです。
日本語には本来句読点はありませんでした。いや、日本語にかぎりませんね、他の言語でも、時代を遡れば遡るほど、パンクチュエーションの規則は不確かです。そんなものはもともとなかったのです。それは当然のことで、パンクチュエーションは書き言葉固有のものであり、話し言葉には存在しなかったからです。口頭表現でパンクチュエーションに相当するのは「間」ですが、これは文法規則とは別のルールに支配されています。これも実に面白いテーマなのですが、今日は立ち入りません。
ちょっと極端な言い方をすれば、句読点、より広く言えばパンクチュエーションは、言語への「異物混入」です。この「闖入」によっていずれの言語もあるとき変化し始めました。それが単なる実用性を超えて規則化・公式化されたときに、書き言葉の話し言葉に対する「自律」が始まったのです。
話を急ぎすぎました。実は、こんな妄想を抱きはじめるきっかけは、吉増剛造氏が『詩とは何か』のなかで折口信夫について「折口さんが革新的だったのは、歌の中にテン・マルを導入したことです」と言っているのを読んだからなんです。私は現代短歌については無知ですが、短歌全般について言えば、一首のなかにテンもマルもないのが普通ですよね。そういうものとして私たちは読んでいるし詠んでいます。
ところが、今日、私の愛読書の一冊である塚本邦雄『清唱千首』(冨山房百科文庫35)のなかの『古今集』のよみ人知らずの一首「ほととぎす夢かうつつか朝露のおきてわかれし曉のこゑ」(巻十三 恋歌三 六四一)の注解を読んでハッとしたのです。
愛する人との朝の別れ、朝露はあふれる涙、氣もそぞろ、心ここにないあの曉闇(あかときやみ)に、ほととぎすの鳴いた記憶があるのだが、後朝(きぬぎぬ)の鳥の聲のつらさは、殊に女歌に多い。初句切れ、二句切れの悲しくも張りつめた呼吸も、また「曉のこゑ」なる結句の簡潔な修辭も、後世の本歌となる魅力を秘めてゐる。季節の戀歌として情趣溢れる稀なる一首。
塚本氏がいう初句切れも二句切れも通常の表記では自明ではありません。その切れを句読点で表記してみましょう。
ほととぎす、夢かうつつか、朝露のおきてわかれし曉のこゑ
ほととぎす。夢かうつつか。朝露のおきてわかれし曉のこゑ
どうですか。すらすらと句読点なしに読むのとは違った印象を受けませんか。さきほどは「異物混入」と句読点を貶しましたが、使い方しだいでは歌の心を浮き立たせることもできるのではないでしょうか。
昨日の記事で話題にした仏訳がこの歌の鑑賞を深めてくれます。
Le coucou :
Songe ? Ou réalité ?
Ce chant à l’aurore,
Quand nous nous séparâmes
Dans la rosée du matin.