昨日の記事で紹介したエミリー・ディキンソンの二つ目の詩に出て来る「気を失った駒鳥」について吉増氏はこう述べています。
すぐにどなたでもが脳裏に、気を失っているから動かない鳥の温かさを両の手の掌に感じながら、そっと、支えてあげるしぐさが浮かんでくるはずです。それと同時に、掌が感じている、この小さな生き物の鼓動の温かさへの驚き、驚異、生命の驚異というようなものも伝わってくるでしょう。
吉増氏はこの「しぐさ」に詩が発生してくる「しるし」を見てとっています。
最終行「私の生きるのは無駄ではない」については、「ほんの少しだけですが、この言葉、駒鳥がいっているようにもわたくしには聞こえてくる」と言っています。
そして、この言葉の聴き手は誰なのかと問います。この問いに対して、「エミリーの家のすぐ傍か樹々の間に佇んでおられる「一なる神」さまへの伝言(つたえごと)のようだ、そう聞きたいとわたくしは思っています」と答えています。
「孤独がゆえに立ちあがってくるピュアな、ある意味においては倫理的な「立ち姿」のようなもの」がこれらの詩(昨日の記事で紹介した二つの詩と紹介しなかったもう一つの詩)から感じとられないだろうかと読者に問いかけます。
昨日の記事で紹介しなかったもう一つの詩は、吉増氏自身が言及されているように、『ソフィーの選択』という映画の中で、アウシュヴィッツで苦難のときを経たポーランド出身のある女性(演じているのはメリル・ストリープ)が、アメリカに逃れてきて英語を覚えるときに、英語の勉強のためにエミリー・ディキンソンの詩に触れ、その詩に引かれていくというシーンで使われています。せっかくですから、その四行二連の詩も読んでみましょう。
Ample make this Bed —
Make this Bed with Awe —
In it wait till Judgment break
Excellent and Fair.
Be its Mattress straight —
Be its Pillow round —
Let no Sunrise’ yellow noise
Interrupt this Ground —
死の床を広くつくるがよい
畏れと敬いでつくるがよい
優れて公正な審判の日の始まるまで
そこで待つがよい
褥を真っ直ぐに
枕をふくらませよ
日の出の黄色い騒音から
この場所を守れ
この詩について吉増氏はこう述べています。
いまわたくしの声にして出して、そしてそれを聞き直してみてもわかりますけれども、思いがけず、ふっと向こう側から、亡くなった遠い御祖(みおや)、女の人がそっと耳元にささやくような、とても細い優しい、しかしであると同時に、神託というか神々しい、途方もなく遠いところからの声でもあるようなもの、そんなものがこの詩からは聞こえてきます。アメリカという存在のずっと奥のほうから、ふっと、……、神々しいといいますか、あるいは神託、神のお告げのようなそういう響きを持っている詩のあらわれを、ここに聞いておりました。