「現代哲学特殊演習」で読む次なるテキストは今西錦司の『生物の世界』である。このテキストについてはすでに2018年8月20日・21日の記事で取り上げており、今それに付け加えることもないので、当該記事のリンクだけを日付のところに貼っておく(拙ブログにすでに何度かお越しいただいている方はご存知のことと思いますが、記事中、青字あるいは青字+下線のところは、その上をクリックすると当該箇所が新しいウインドウで開かれるようになっています)。
今西錦司の次は西田幾多郎の論文「行為的直観」である。それはしかし今西の自然学が西田哲学に触発されたものであるという説を前提としてのことではない。同論文で「主体」と「環境」の関係に与えられた定式を見ておくために過ぎない。目的はあくまで「主体」という言葉が近現代の諸家によってどのように使われているか、ざっと見ておくことにあるからである。例えば以下のニ箇所である。
生命というのは単に種の形成作用というごときものではない。それは主体が環境を、環境が主体を限定し、主体と環境との弁証法的自己同一でなければならない。弁証法的一般者の世界の自己限定として生命というものが考えられるのである。
主体が環境を、環境が主体を限定し、作られたものから作るものへという歴史的進展の世界に於ては、単に与えられたと云うものはない、与えられたものは作られたものである。与えられたものは作られたものであると云うことは、環境というものが主体的に摑まれたものと云うことでなければならない。歴史的に作られたものと云うのは、主体的に、種的に形成せられたものでなければならない。歴史的に形作ると云うことは、種的に形作ることである。併し無論、環境とは単に主体的に摑まれたものではない。
後期西田哲学の術語についての予備知識がないと「さっぱりわからない」箇所だろう。しかし、実はそれほど難しいことを言っているわけではない。
生物個体は、ある種に属する個体として、ある時ある所で、所与の条件下、自己が生きる環境によって規定されつつ、その環境に働きかけ、動的・可塑的な生命世界を形成する要素である。だから、生命世界には単に成立与件として生命に対して「客観的に」外から与えられたものはなく、すべては生命世界の中で作られたものであり、そしてそのかぎりにおいて作るものとして働きうる。この形成過程が歴史である。歴史の形成過程は、しかし、各個体によって直接的に無媒介に担われるのではなく、歴史の具体的構成単位である種に属する個によって現実化される。したがって、主体と環境との関係は、主体が一方的に環境を改変することでもなく、環境が主体を一方的に限定することでもなく、主体は種に属する個として自己の環境に歴史的に限定される限りにおいて、その環境の形成過程にそこで作られたものであるかぎりにおいて参与する。
このような生命世界においては、主体の環境に対する倫理的責任が「論理的に」発生するが、西田自身は形成作用を強調するばかりで、自らの生命哲学に内包されていた環境倫理学における可能性についてはまったく気づいていなかった。と言うよりも、それを主題化しうる歴史的条件がまだ与えられていなかったという言うべきだろう。したがって、この可能性を引き出すのは、地球環境の危機的状況の中を生きつつある私たちの課題である。