森田真生の『数学する身体』に「主体」という言葉が登場する文脈の中からあと二つ重要な箇所を見ておきたい。今日はそのうちの一つ、ユクスキュルの『生物から見た世界』に言及している箇所を見る。
『生物から見た世界』(岩波文庫 2005年)には「主体」という言葉が七十箇所ほど使われており、それらを網羅的に見るには時間が掛かる。今回の目的は「主体」問題を考えるヒントとして参照することがだから、森田氏の本の説明に依拠してユクスキュルにおける主体概念の基礎を押さえておくにとどめる。
『生物から見た世界』第一二章のはじめのほうに、一個のマッチ箱と三本のマッチを使いながら一人で遊んでいる少女の話が出て来る。その少女はお菓子の家やヘンゼルとグレーテルと悪魔の話を一人静かにしていたが、突然こう叫んだ。「悪魔なんかどこかへ連れていっちゃって! こんなこわい顔もう見ていられない」。
ユクスキュルによれば、少なくともこの少女の環世界(Umwelt)には悪魔がありありと現れていたのであり、彼はこれを「魔術的な体験」と呼ぶ。
ここからは森田氏の説明についていこう。
この少女の環世界には明らかに、彼女の想像力が介入している。ダニの比較的単純な環世界とは違い、彼女の環世界は外的刺激に帰着できない要素を持っている。それをユクスキュルは「魔術的(magische)環世界」と呼んだ。
この「魔術的世界」こそ、人が経験する「風景」である。
人はみな、「風景」の中を生きている。それは、客観的な環境世界についての正確な視覚像ではなくて、進化を通して獲得された知覚と行為の連関をベースに、知識や想像力と言った「主体にしかアクセスできない」要素が混入しながら立ち上がる実感である。何を知っているか、どのように世界を理解しているか、あるいは何を想像しているかが、風景の現れ方を左右する。
「風景」は、どこかから与えられるものではなくて、絶えずその時、その場に生成するものなのだ。環世界が長い進化の来歴の中に成り立つものであるのと同様に、風景もまた、その人の背負う生物としての来歴と、その人生の時間の蓄積の中で、環境世界と協調しながら生み出されていくものである。
そうして私たちは、いつでも魔術化された世界の中を生きている。いや、絶えず世界を魔術化しながら生きている、と言った方が正確だろうか。(129‐130頁)
この一節で使われている「風景」という言葉は森田氏が導入した言葉で、『生物から見た世界』には出て来ない。この「風景」は単にその都度生成しては消滅していく儚い幻影ではない。この「その場に生成する」ことはフランシスコ・ヴァレラが言うところの「リアリゼーション」と重なりあう。主体の成立の契機をどこで捉えるかという問いに対する答えのヒントがここにある。