内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

19世紀初頭の気象学の自然科学としての自立が到来させた「神なき」内面世界

2024-10-28 23:59:59 | 哲学

 特殊な装置を使用する場合や宇宙船・潜水艦あるいはそれに準ずる特殊な閉鎖空間を例外として、私たちは大気のなかでしか生きられず、常にある気候・天気・空模様の下で暮らしているのだから、それらからの直接的な心身への影響に恒常的に晒されている。これは人類の誕生とともに人間に与えられた生存条件である。
 しかし、それだけではなく、人間の自己認識は、それぞれの時代の気象に関する科学的知識・文化的表象・宗教的表象・民間信仰等によって規定されてもいる。
 この気象と自己認識との関係という問題は、フランスでは、歴史学、人類学、比較文学などの分野でよく研究されていて、気象学史および気象の科学的研究の成果をも視野に入れた人文科学における一つの重要な学際的研究領域を形成している。
 歴史学の分野からこの研究領域の発展に主導的な貢献をしているのがアラン・コルバンである。Le ciel et la mer, Flammarion, « Champs », 2019, 1re édition, Bayard, 2005(小倉孝誠=訳『空と海』藤原書店、2007年)は一般向けの一連の講演が基になっているので、気象研究が感性の文化と歴史にとってきわめて重要な要素であることがとてもわかり易く述べてある。
 邦訳のレビューによると、訳文も大変読みやすいようだ。それに、邦訳には原書には未収録の第4章「身体と風景の構築」と付録としてコルバンへのインタビュー「心性史から感性の歴史へ」(聞き手=イザベル・フランドロワ)も収録されている。
 第1章「天候にたいする感性の歴史のために」には、メーヌ・ド・ビランに言及されている箇所が一つだけある。それは、気象学に大きな進歩が見られた19世紀初頭に、心象の記述における気象記述言語のメタフォリックな使用や両者の単なるパラレリズムを超えた、両者の相互浸透的な関係が学的考察の対象になり始めたという文脈においてである。
 まさにこの問題を日記における哲学的考察の主要なテーマとしたのがメーヌ・ド・ビランなのであるから、この言及は当然のことである。それに、メーヌ・ド・ビランにおける気象と自己認識の関係は、コルバンもたびたび引用し、共著の協力者としてもしばしば登場する Anouchka Vasak が特に研究している重要なテーマの一つでもあり、昨日の記事で言及した2つの論文のうちの後者の筆者は彼女である。
 今日のところはその点は措くとして、私がコルバンの上掲のテキストでハッとさせられた一節のみを引く。

Surtout : s’arrêter à l’événement météorologique et à ses effets sur le moi, c’est délimiter un territoire privé, à l’écart ou, tout au moins, en bordure de la scène historique ; c’est se construire un monde à usage interne ; c’est laïciser le temps. 
                                           A. Corbin, op. cit., p. 28.

 迂闊と言えば迂闊な話なのだが、この引用の最後の文に使われている動詞 laïciser(非宗教化する、世俗化する、宗教から分離する)にハッとさせられたのである。つまり、17世紀にすでにその端緒が見られ、18世紀に啓蒙思想家たちによって「お墨付き」をもらっていたこととはいえ、気象現象の科学的考察および宗教(特にキリスト教)的解釈からの分離が、気象学が学問として自立する19世紀初頭に決定的となり、気象現象が影響を及ぼす個人の内面空間が「世俗化」され、それとして学的考察対象となったということに、この動詞一つによって今更ながら気づかされた、という間抜けな話である。
 「神なき」内面世界の到来という精神史の転換期という文脈のなかでメーヌ・ド・ビランの哲学的探究は展開される。その限りにおいて、そこに「超自然的恩寵」が到来しないことは論理的に必然的な帰結であると言わざるを得ない。