内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「自己」の外なる「内なる無辺の大地」に自ずと実る智慧を待ち望み続けた哲学者

2024-10-26 23:59:59 | 哲学

 Jean-Louis Chrétien (1952 - 2019) は私にとってもっとも大切な哲学者の一人であり、ちょうど二十年前に読んだ Promesses furtives (Les éditions de Minuit, 2004)、そのなかでも特に第6章 Trouver et chercher はいまだに汲み尽くせぬ思索の源泉の一つであり続けている。
 その章のなかにメーヌ・ド・ビランが引用されている箇所がひとつだけある。それは、問題の解答を知的な「努力」を払って探すのではなく、問題そのものが自分のなかでいわば時熟するのを待つとき、その結果として最も良い解答が自ずと得られるというハーバート・スペンサーの経験談を取り上げた段落に引き続く段落のなかである。
 この時熟の待機は、夢想的な受動性のなかで僥倖を期待することではない。そうではなく、私たちのなかで問題が徐々に成熟するにまかせるとき、その問題を解決するための私たちの能力もそれに応じて成熟していくことである。メーヌ・ド・ビランが1816年6月22日の日記に記していることも同様の経験を語っているとクレティアンは言う。クレティアンが部分的に引用している当該の段落の全文を読んでみよう。

Je reconnais quelque progrès à mesure que j’avance dans la vie, en ce que je trouve simples et naturelles des idées auxquelles je ne me serais élevé autrefois que par effort. On peut reconnaître les hommes vraiment habiles et maîtres de leur sujet au ton de simplicité et de bonhomie qu’ils mettent dans leurs discours ; ces grands élans, ces airs de prétention, ce charlatanisme de mots pompeux, cette artificieuse éloquence, tout ce qui en impose aux sots s’allie le plus souvent avec le vide des idées et la plus grande ignorance. Quel homme d’esprit et de vraie science peut s’applaudir ou s’enorgueillir en lui-même de ce qu’il sait et conçoit avec facilité des idées communes les plus familières ? Quand une âme est élevée et qu’un esprit est vraiment éclairé, les grandes pensées, les idées profondes y germent naturellement : c’est le produit spontané du sol, et la spontanéité exclut tout sentiment d’effort, tout mérite d’une difficulté vaincue. (Journal, tome I, p; 149)

 かつては「努力」によってようやく到達できた考えが今では単純で自然だと思えるとき、私は自分の人生におけるいくらかの進歩を認める。真に己が扱う主題に熟達している人たちは、そのスピーチの単純で親しみやすい調子で分かる。大げさで、これ見よがしの、手の込んだ饒舌、愚かな人たちを圧倒しようとするあらゆる手管は、ほとんどの場合、そのように披瀝された考えが実は空っぽでどうしようもない無知の結果にほかならないことを示している。真の学識を備えた精神の持ち主は自分がほんとうによく知っていることなどわざわざ自慢しようとするだろうか。魂が高められ、精神が真に光に照らされているとき、偉大なる思想や深遠な考えはそこに自然に芽吹く。それは大地のおのずからなる実りであり、その自発性には、努力の感情は微塵もなく、困難を克服した功績の欠片もない。
 このような実りが己のうちに自ずと熟したことが確認できたとき、人はそれを自分の手柄とするのではなく、その「自然の実り」とそれを恵んでくれたものに感謝を捧げるはずである。
 ビランは、「内部世界」で己の努力によって何かを獲得しようとしたのではなく、直接与えられる自己触発的な内感の確実性をそこに発見したのでもなく、外界から独立した精神の自由を確保しようとそこに立てこもったのでもなく、「自己」の外なる未踏の「内なる無辺の大地」を探索し、そこに自ずと実る智慧を注意深く待ち望み続けた哲学者であったように私には思われる。