昨日の記事の補足として、Florance Burgat の Animal, mon prochain, Odile Jacob, 1997 から二箇所引用する。
C’est le recours à une différence métaphysique qui sert à justifier l’utilisation à la fois réifiante et illimitée de l’animal. Pensé par opposition au référent normatif « homme » dont il serait l’envers, l’animal est défini selon une structure privative qui met invariablement en relief un manque essentiel : il est sans âme, sans raison, sans liberté, sans conscience, bref, appréhendé à travers une série de négations ou de soustractions. » (p. 15)
形而上学的な差異に訴えることで、動物をモノとして扱い、無制限に使用することが正当化される。規範的な参照項である「人間」と対立して考えられる動物は、常に本質的な欠落を強調する欠如的構造によって定義される。つまり、動物は、魂をもたず、理性をもたず、自由もなく、意識もなく、要するに、一連の否定と減法を通じて把握される。
人間をもっとも完成された個体という規範として措定し、その規範性は精神・理性・知性・自由意志・未来への投企などの諸基準を満たすことだとしたとき、そこからの当然の帰結として、他の動物たちは、程度の差こそあれ、すべて欠如態として規定されることになる。
しかし、人間を規範とするのは可能な選択肢の一つに過ぎず、他の基準に基づけば、今度は人間が欠如態になる。人間は空を飛べず、水中で生息できず、光合成もできず、超音波による位置測定やコミュニケーションもできない、などなど。
Que vaut l’identification entre « personne » et « être humain », s’il s’agit pour ce dernier de posséder un certain nombre de critères tels que l’intelligence, l’utilisation du langage articulé, l’autodétermination, la projection dans le temps, etc. ? Comment ne pas remarquer en effet que ces déterminations excluent certains humains de la sphère des personnes ? (p. 61)
もし「人間存在」とは、知性、分節化された言語の使用、自己決定、将来の予測などの一定数の基準を満たしていることであるとすれば、「人間存在」と「人格」との同一視はどんな帰結をもたらすか。明らかに、「人間存在」という範疇を限定するこれらの規定は、「人格」の領域からある人たちを排除することになる。
この点については昨日の記事で触れた。ちょっと挑発的な仕方でその主旨を一言にまとめるならば、人格主義は非人道的(inhumain)である。
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