ノエルの休みに入って読書三昧に耽っている。十日ほど前に購入した Kindle Scribe(2024)で読書ノートを作りながら読んでいる。プレミアムペンの書き心地が期待以上によく、書くことに喜びを覚える。読書ノートとしてだけでなく、講義ノートとしても使っている。
パスカルにおける inquiétude について思いを巡らし、「不安」以外に訳語はないものかと思案しているとき、「しづごころなく」という表現が思い浮かんだ。
手元にある十一冊の古語辞典のうち『古典基礎語辞典』を除く十冊には「しづごころ」が立項されている。用例は、一冊を除いて、紀友則の「ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」(古今和歌集・巻第二・春歌下・八四)である。百人一首中の好きな一首として挙げる人が多いこの秀歌(『百人一首』を凡作揃いと切って捨てた塚本邦雄でさえ、『新撰 小倉百人一首』(講談社文芸文庫、2016年)のなかで、「惜春歌として品位のある、優美な、人に好まれさうな歌」と評価している)を、「しづごごろ」の用例として挙げるのは学習用古語辞典として至極穏当な選択である。だが、他の用例はどうなっているのかと気になった。
友則の歌以外を用例として挙げているのは、小西甚一の『基本古語辞典』(大修館書店、新装版、2011年)である。蜻蛉日記と源氏物語からそれぞれ一例挙げている。「『いとめづらかなるすまひなれば、しづごころもなくてなむ』など語らひて」(中巻・天禄ニ年・鳴滝籠り)、「しづごころなく、このつぼねのあたり思ひやられたまへば」(真木柱)。いずれも、落ち着かない心理状態を意味している。
その他の用例も気になり、『伊勢物語』『竹取物語』『源氏物語』『蜻蛉日記』『紫式部日記』『和泉式部日記』『更級日記』『枕草子』『古今和歌集』『新古今和歌集』の電子書籍版で検索してみた。「しづごころ」「しづ心」「静心」の三つ表記を入力して検索した。
結果、用例が見つかったのは『蜻蛉日記』『源氏物語』『古今和歌集』『新古今和歌集』の四作品。『蜻蛉日記』には上掲の例も含めて5例。『源氏物語』には28例。『古今和歌集』には上掲の友則の歌と貫之の一首の2例。『新古今和歌集』に6例(うち一首は『紫式部集』から採られた一首)。
これらに『和泉式部集総索引』(笠間書院、1993年。この書については 2019年8月6日の記事 を参照されたし)によって調べた3例が加わる。
和泉式部の一首(「この衣の色白妙になりぬともしづ心ある褻衣にせよ」)を例外として、すべて「なし」という打消の語を伴っており、ほとんど「しづごころなし」という一語として機能している。
落ち着かない心理状態を意味している例が多いが、自然現象の慌ただしさを描写している例(「雲のただずまひ静心なくて」蜻蛉日記、「置く露もしづ心なく秋風に乱れて咲ける真野の萩原」新古今・巻第四・秋歌上・332)もある。ただ、その場合も、その自然現象の描写に心模様が重ね合わされている。紫式部の一首「かきくもり夕立つ波のあらければ浮きたる舟のしづ心なき」では、風景描写がそのまま人間の実存的様態の表象になっている。
「しづごころなし」をすべて漢字で表記すれば「静心無」となる。順序を入れ替えて「無静心」とすれば、inquiétude(in - quiétude)の原義に近づく。
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