「おのずから」が副詞としての用法に限られるのに対して、「みずから」は名詞/代名詞/副詞として広く用いられる。前者が上代から用例があるのに対して、後者は平安時代初期に登場する。
このことと『古今和歌集』での「思ふ」の頻用と何か関係があるだろうか。それはわからないが、歌そのものなかに使われた例は同集にはない。仮名序と詞書(967)との二箇所に見えるだけである。前者では「自分たち」を指す名詞として、後者では歌の作者、清原深養父(生没年未詳、清少納言の曽祖父)自身のことを指す名詞として、それぞれ用いられている。
時なりける人の、にはかに時なくなりて嘆くを見て、みづからの、嘆きもなくよろこびもなきことを思ひてよめる
光なき谷には春もよそなれば咲きてとく散るもの思ひもなし
「もともと光のささない谷には春も無縁なものですから、花が咲いてすぐに散るのを心配する、という気持ちはありません」(角川ソフィア文庫『古今和歌集』高田祐彦訳)。高田氏は四五句について「花が咲けばすぐに散ることを心配するのが世の常であるが、春が来ないので、花も咲かず、そうした心配事もない、ということ。「咲きてとく散るもの思ひ」は、もの思ひを花に喩えた表現と見ることもできる。「もの思ひの花」という表現もある」と注解している。
昨日の記事で引用した仏訳『古今和歌集』ではこう訳されている。
Voyant quelqu’un qui déplorait la perte soudaine de son pouvoir après avoir eu son heure d’influence, Fukayabu, se disant que lui-même ne connaissait ni ces peines ni ces joies, composa ce poème.
Dans une vallée
Sans lumière, même le printemps
Nous est étranger,
Aussi, jamais l’on s’inquiète
Des fleurs écloses qui si tôt choient.
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