シモーヌ・ヴェイユは目の当たりにした現実の表層の下のほんとうの姿を透徹した眼差しで見抜く。その洞察は、その時その場の実態を白日の下に晒すだけでなく、時代を超えた真実を捉える。
スペイン内戦の経験を語ったベルナノス宛の手紙がその一例である。その手紙の一節を引用する前に、ベルナノスという人物とヴェイユが彼に手紙を送った経緯とを、冨原眞弓氏の『シモーヌ・ヴェイユ』(岩波現代文庫、2024年、109頁)に拠って紹介する。
ベルナノスはスペイン系フランス人で、右翼カトリシズムと反ユダヤ主義を標榜するアクシオン・フランセーズに属し、思想的・政治的にはヴェイユの対極にある。スペイン内戦初期は心情的にフランコ派にくみし、その息子はフランコ派の義勇兵として戦う。しかしベルナノスはまもなくフランコに幻滅し、評論『月下の大墓地』(1938)でフランコ陣営とカトリック教会の癒着と欺瞞をあばいた。この評論を読んで感銘をうけたヴェイユは作者に手紙を書く。「あなたは王党派で、ドリュモン〔強硬な反ドレフュス派にして反ユダヤ主義者のカトリック右派〕の弟子ですが、それがなんだというのでしょう。アラゴンの民兵だったわたしの仲間たちよりも、あなたのほうがはるかにわたしに近いのです」。「ファシストの坊主ども」を殺した手柄話に興じる仲間のアナキストたちにふれて、ヴェイユはつぎのようにつづけた。
世俗にせよ教会にせよ、なんらかの権威ある当局によって、生命になにがしかの価値があるとされる人間の埒外に、ひとつの範疇に属する人びとが定められるやいなや、こうした人びとを殺すこと以上に自然な行為はなくなります。懲罰も非難もこうむらずに殺せると知るなら、人は殺すものです。あるいはすくなくとも、殺人者たちを励ますような微笑を送るのです。たまたま最初はいささかの嫌悪を感じたとしても、これをあえて口にはせず、いくじなしと思われたくなくて、すみやかに押し殺してしまいます。衝動あるいは酩酊のようなもので、よほどの強靭な精神力なしには、この誘惑に抵抗することはできません。思うに、こうした精神力は例外的なものです。わたしは寡聞にしてそのようなものを眼にしたことがないからです。(冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』、109‐110頁)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます