内的自己対話-川の畔のささめごと

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「春花の散りのまがひに」― 散り乱れる春の花のうちに儚き人の命を想う

2019-04-14 21:01:01 | 詩歌逍遥

 大伴家持が越中守に赴任した翌年天平十九年(七四七)二月二十日に詠んだ長歌一首と短歌二首(巻第十七・三九六二-三九六四)は、前年末からかあるいはその年の初めからか重病で死に瀕した経験をきっかけとして詠まれた。題詞には、「たちまちに枉疾に沈み、ほとほとに泉路に臨む。よりて歌詞を作り、もちて悲緒を申ぶる」とあり、左注には、「右は、天平十九年の春の二月二十日に、越中の国の守が館にして病に臥して悲傷しび、いささかにこの歌を作る」とある。
 第一反歌は、家持が人生の儚さを詠んだ歌としてよく引かれる。

世間は数なきものか春花の散りのまがひに死ぬべき思へば

 原文は、第一句が「世間波」、第三句が「春花乃」となっている以外は一字一音で表記されており、訓みに異同はない。第一句は「よのなかは」と訓み、世の中、人生、あるいはその世の中に生きる人間を指す。「数なし」は、はかないこと。「春花」は、春に咲く花一般を指す。「散りのまがひに」は、「散り乱れる中で」の意。
 「散りまがふ」という表現は、集中に八例ほど見えるが、「春花」と組み合わされているのは、この家持歌一例のみ。巻第十七・三九九三の家持作長歌にも「花散りまがひ」とあり、これも春の花を指している。巻第八の「梅花の歌」三十二首中に「梅の花散りまがひたる」とある。巻第九・一七四七の高橋虫麻呂歌集中の長歌には、「しましくは散りなまがひそ」とあり、「しばらくの間、散り乱れてくれるな」と、桜の花に向けての呼びかけ。
 それ以外の例は、人麻呂の石見相聞歌第二群の長歌(巻第二・一三五)に「黄葉の散りの乱ひに」とあり、巻第八・一五五〇の湯原王の短歌に「秋萩の散りの乱ひに」など、秋の草花と組み合わされている。
 春愁の歌人家持の上掲歌においてのみ、散り乱れる春の花の姿と儚き人の命とが重ね合わされている。












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