2. 3. 1 予備的考察(2)
私たちが日常的に経験する奥行知覚の例をいくつか挙げてみよう。
ここに私の机がある。その向こうには窓。その窓越しに、一軒の家が、そしてそのさらに向こうに別の一軒の家が見える。私が地平線に向かってのびている道の上に立つとき、その道の両辺は私から遠ざかるにしたがって間隔が狭まり、ついには一点に収束するように見える。ここに一個の立方体がある。そのある角度から見られた立方体を前にして、私は、斜めに見られた側面をそれとして直ちに捉える。そこには、最初は菱形に見えていた側面を正面に見えている正方形と合同な正方形と見なすといったような理性による矯正の介入する余地はない。その立方体の周りを回って見る必要も、それを回転させて見る必要さえない。たとえ見えていない側面は空っぽで、実のところは立方体ではなく、その意味では「見誤り」だったとしても、その視像の奥行知覚としての価値に変わりはない。私は、同一平面上に描かれたある直線の組み合わせを立方体の見取り図として見ることもできる。
メルロ=ポンティは、奥行知覚について、それを一連の外的要因の因果的連鎖に還元する経験主義的な説明も、それを構成する主体による知的操作の結果と見なす知性主義的な説明も批判する。なぜなら、何れの場合も、奥行知覚が本来的に示しているものを私たちから隠蔽してしまい、どちらの説明も「世界の人間的経験の説明を私たちに与えるものではない」(Phénoménologie de la perception, p. 296)からである。確かに、この二つの一見対照的な説明は、実のところ、同じ前提に立っている。どちらも、私の見る身体と見られた対象とを、同じ「客観的な」空間、つまり、内的観点を一切排除しているゆえに、定義上奥行を持たない等質空間に置いている。このような空間は、私の経験において自ずから組織される奥行を有った空間の記述とは相容れない。しかし、すでに生きられた奥行の経験の明証性を否定することはできない。それゆえにこそ、経験主義も知性主義も奥行知覚についてそれぞれの説明を与えることを強いられる。それらの説明は、しかしながら、それらの理論的枠組みの外に排除しているものを所与として前提するという誤りを犯した擬似的な説明に過ぎない。「どちらの哲学も、構成操作の結果であるものを自明なものと見なしているが、私たちは、逆に、この構成操作の諸段階を辿り直さなくてはならないのだ」(ibid., p. 295)。知覚が私たちを最初に世界に導き入れるのであるとすれば、その知覚が与える奥行を有った空間を私たちが原初的に生きる空間として認めなければならない。私たちがそこでしなければならないのは、客観的空間に基づいた「説明」ではなく、「客観的世界以前の諸現象の純粋記述」(ibid., p. 298)なのである。
奥行知覚のうちに見出されるのは、客観的因果性でもなく、構成する精神でもなく、「動機の原初的関係」(ibid., p. 303)である。この関係において、動機づけるものは、動機づけられたものを必然的にそれ自身によって与えるのではない。もしそうであったならば、その関係は因果関係に還元されてしまう。動機づけるものがそれとしての価値を獲得するのも、動機づけられたものをそれとして与えられるのも、この私が動機づけるものをそれとして引き受けるかぎりにおいてである。動機づけるものも動機づけられたものも、どちらもそれだけで孤立的に機能することはありえない。動機づけるものなしに動機づけられたものが在りえないのは言うまでもないが、それと同時に、動機づけるものも動機づけられたものがそれとして実現されるかぎりにおいて動機づけるものでありうるということも同様に認めなければならない。これが「引き受けられた状況」(« la situation assumée », ibid., p. 299)ということである。
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