「人格」もまた定義がとても難しい概念である。法学、心理学、精神医学、哲学・倫理学など、分野によって定義は異なる。ただ、「すべての人間はその人固有の人格を有している」と無条件には言えないという共通点がある。なぜなら、人格概念は「完成された」あるいは「完成しうる」あるいは「完成の途上にある」人間にのみ適用されるからである。言い換えれば、人格概念は、そのような人間を前提とする限りにおいて実効性を有する。
同じ罪を犯しても、成人と未成年とでは法的裁きが異なるのは、後者はまだ完成された人格を有してはいないと考えられているからである。重篤な心疾患患者が健常者と同様な裁きの対象にはならないのも、犯罪時において十全な人格を保有していないと考えられているからである。一時的な心神耗弱状態であってさえ、場合によっては無罪となる。これらは人格の(相対的・部分的な)欠如態の諸相の例である。
欠如の程度が軽度になると判断が難しくなる。欠如ではなく、一時的な機能不全あるいは能力行使不能・麻痺状態と考えられる場合もある。あるいは、そもそもそれらは欠如でも不全でも麻痺でもなく、その人の「個性」だという主張もある。
上掲の諸例のいずれにも該当しない人でも、なんらの欠如もない一個の十全な人格として常に行動しているかと問われれば、どうであろうか。必ずしもそうとは言えないと答える人もいるのではないだろうか。私も口籠ってしまう。気の迷い、付和雷同、同調圧力、短絡的な逆上、嫌悪や恐怖に起因する偏見・誤認などなど、法には触れないとしても、私の「人格」を疑わせる事例はいくらでも挙げることができる。
一方、人格において、欠如態であろうが、一時的な機能不全であろうが、対人関係上に多少問題があろうが、基本的人権を有する「人間」としては最低限尊重されなくてはならないという「ヒューマニズム」の立場もある。
このように法的人格についてちょっと考えただけでも、問題が複雑多岐にわたることがわかる。と同時に、まさにそうであるからこそ、人格は人間に独占的なものではなく、一定の動物たちにも一定の条件のもとに認めるべきだという議論も生まれてくる余地があることも理解できる。
「人格」という日本語には「人」という漢字が使われているから、動物にも人格を認めよという議論は一見無茶なようにも見える。そもそも動物を人間と同様な権利を有する存在として扱うことはできないという立場もありうる。しかし、本来 personne / personnalité は「人間」という資格のことではない。それは、一個のそれ固有の個体史をもつものとして尊重されるべき「位格 persona」のことである。この定義にしたがえば、人間と動物の境界は曖昧となる。
人間と動物における欠如を程度問題とする相対論やある能力において動物を人間に対して優位に置く比較論がここでの問題ではない。
Personne とは誰か。Personnalité とは何か。なぜ personne は personne として尊重されなくてはならないのか。その根拠は何か。動物哲学・動物倫理・動物権利論は私たちをこれらの根本的な問題に立ち戻らせる。
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