内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

早朝ジョギング観察日記

2022-07-21 23:55:30 | 雑感

 昨日五時過ぎにジョギングに出かけて、すでにウォーキングや犬の散歩をしている人をそこここに見かけて驚かされた。今日はさらに時間を早めて四時四五分に出発したのだが、やはりすでにウォーキングや犬の散歩の人たちがいた。数えたわけではないけれど、一時間走っている間にすれ違ったり追い抜かしたりした人たちはニ、三十人はいたと思う。いったいみんな何時に出発しているのだろう。上には上がいるものだなあと妙に感心してしまった。おそらく日の出前、空が白みだすころには家を出ているのだろう。日中の暑さを避け、早朝の比較的涼しい時間帯に運動しようというのはわかる。私自身がそうだし。でも、こんなに多いとはやはり驚きだった。
 今日は昨日とはまったく別のコースにした。駒留中学校通用門まで坂を下り、遊歩道を右に折れ、蛇崩川緑道を中目黒方面にずっと進み、山手通りに出たところで右折し、中目黒駅前を通過し、目黒区役所の裏手の細道を適当に右左と曲がりながら、方向としては祐天寺方向を目指した。
 中目黒駅付近には飲食店・居酒屋などが多く集まり、深夜まで営業している店も少なくない。それらの店の中ではスタッフが閉店後の片付けをしている。他方、朝早くから店を開けるお弁当屋さんやファーストフード店は開店準備ためにすでに灯りが灯っている。道を行き交う人たちも二様だ。朝帰りする人たちと早朝出勤の人たちが入り混じっている。早朝から始まっている、あるいは深夜から続いている工事もあり、現場に止められたトラックの周りには三人の警備スタッフが立っている。
 それらの人たちの脇を走り過ぎながら、祐天寺駅の方へと坂道を登っていく。祐天寺駅前からは高架の東横線の下の道を学芸大方向に進む。学芸大の駅付近の住宅街を通り抜け、碑文谷公園内を一周する。そのすぐ隣の日大水泳部学生寮の前を通過し、下馬六丁目内を環状七号線の方向に向かう。環七を横断し、呑川柿の木坂支流緑道と交わるところまで下って右折、緑道に沿ってしばらく走り、また環七方向に右折し、野沢龍雲寺の交差点で環七を横断し、あとは最短距離コースを取る。中丸小学校前の坂を学芸大付属高校の方へと下り、付属高校の塀に沿って走る。本日もちょうど一時間で一〇キロ。
 走りながら街を観察できることもジョギングの楽しみの一部をなしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


懐かしの街区を走る超ローカルなジョギングコース案内

2022-07-20 23:25:42 | 雑感

 日本に到着した昨日はさすがにジョギングはお休みしたが、前日ストラスブールを出発する朝は五時過ぎから一二キロ走った。到着翌日の今日の早朝五時五分から一時間一〇キロ走った。生まれ育った街区を走るのはほぼ四十年ぶりではないかと思う。当時とは大きく様変わりしたところも少なくないが、当時とあまり変わらない街の風景も残っており、それらを懐かしむように走った。
 自宅前の駒繋神社への参道を鳥居の前まで走り、境内を避けて鳥居に向かって右脇の坂道を下り、左に折れて遊歩道を三軒茶屋方向にしばらく走る。国道二四六に出る少し手前で左に曲がり、上馬の住宅街をほぼ二四六に沿って南下する。環状七号線を横断し、駒沢公園を目指す。東京医療センターの横手を少し進んだところにある信号を横断し、駒沢公園内に入る。ここまでで三〇分ほど。
 公園内の周回路に入って驚く。まだ五時半過ぎだというのに、ウォーキング、ジョギング、サイクリングをしている人がぱっと見ただけでも数十人はいる。ちなみに、こんな時間に運動している人はフランスではまず見かけない。少なくとも私が暮らすストラスブールではこの時間帯に走っているのは近所では私だけである。
 走りながら観察した。自転車はごくわずかで、九割方がウォーキングだ。皆同じ方向に歩いているが、速度はそれぞれ。ジョギングしている人は意外に少なかった。サイクリング路が歩行者専用路と区別されているのは当然として、日本らしいなあと思ったのは、ウォーキング用コースとジョギング用コースが路面のペイントで区分けされていたことだ。概ねその区分けは遵守されているところも日本人らしい。
 ジョギングしている人はウォーキングの人の脇を追い抜いていく。周回路を三分の一ほど走ったところで、ジョギング同好会らしき十人ほどのグループがちょうどスタートしようとしているところに出くわした。いきおい彼らの間に挟まれるような格好になったが、向こうのほうが圧倒的に速い。みるみる引き離されていく。ちょっと悔しい。
 そのグループの最後尾を走っていた女性のペースが私よりちょっとだけ速い程度だったので、彼女についていけるか試した。すると向こうの速度が落ちてきた。少し様子を見たが、これなら私のほうが明らかに速いと判断し、一気に追い抜く。ちょうど若干の下り道だったのでさらにペースアップする。すると同じグループの後ろから二番目の人に追いついた。このグループは一キロ走っては少し休み、また走るということを繰り返しているようで、先頭グループが再スタートしようとしているところに追いついた。
 そこから三百メートルくらいで周回路をちょうど一周したことになり、私は入ったときと同じ出入り口から公園を出た。まだ四〇分ほどしか走っておらず、このまま最短距離で家に戻ると一〇キロにならないので、子供の頃からよく知っている野沢と下馬の住宅街を大回りして、また神社の下に戻り、遊歩道を駒留中学校の端まで進み、そこで右折し、学芸大付属高校の方への坂を登る。付属校の裏の角で左折し、高校の塀を右手に見ながら、百五〇メートルほど進んで左折、滞在先の下馬の家の下に戻る。
 これでちょうど一〇キロ。明日はまたコースを変えてみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二年半ぶりに帰ってきました

2022-07-19 23:59:59 | 雑感

 前日一九時定刻に出発したJAL便は予定より二〇分ほど早く一五時二〇分過ぎに羽田に着陸。東京は雨が降っていたようで、滑走路が濡れて光っていた。検疫検査のためにコース分けされた通路をいたるところに配置された職員の誘導に従って進む。検疫検査は事前登録のお陰で MySOS のスマートフォンの青色画面とQRコードを読み取り機にかざすだけで通過。パスポートの本人確認も機械による顔認証でパス。そこまで通常よりも若干時間がかかった分、荷物が出てくるまでの待ち時間は短かった。
 羽田からはリムジンで渋谷へ。渋谷駅周辺が二年半で大きく変わっているのに驚愕する。いったいいつになったら工事が終るのかというほど長期間に亘る再開発だ。セルリアンタワーで待っていてくれた妹の旦那さんの車で二人が住まう家へ。そこは私が生まれ育った場所でもある。お隣は二五〇坪を超える大きなお宅だったが、家主がなくなり、更地となっていた。八軒の家が今後建つとのこと。それらの家が建つまでは、子供の頃から見たことのない空の広がりが坂上の妹夫婦の家から西に向かって広がっている。到着したときちょうど外に出ていた隣家の従兄弟とその次男に帰国の挨拶を一言。後日の再訪を約す。
 長年続けているコーラスの練習で妹は不在だったので、旦那さんと二人で近所の蕎麦屋で夕食と一献、歓談する。帰宅後、妹も戻ってきて三人でしばらく歓談。心が和む。二年半ぶりのことである。
 今日から八月末までお世話になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


搭乗便を待ちながら

2022-07-18 18:03:37 | 雑感

 午前十一時過ぎ、自宅出発。徒歩十分弱のところにある欧州議会場前の始発バス停から中央駅直通のバスに乗る。十五分で駅に着く。ここまでは順調。
 パリ東駅行きのTGVは五分遅れとの表示が電光掲示板に。猛暑で遅れが出ると前日SNCFからSMSが入っていたからここまでは想定内。しかし、実際は十分以上の遅れ。シュトゥットガルト発ですでにかなり混んでいて、所定の場所にスーツケースを置くことができない。仕方がないから通路にはみ出したままにする。座席からは近いから、もし倒れるようなことがあってもすぐに対処できる。東駅には十五分遅れで到着。
 東駅から北駅までスーツケースを押して歩く。十分ほどだが、猛烈な暑さですぐに汗が吹き出す。今日のパリはストラスブールより暑い。なぜ東駅が終点のTGVに乗り、シャルル・ド・ゴール空港直通のTGVに乗らなかったかというと、搭乗便に間に合う直行便がなかったからである。
 北駅からはRERのB線で空港まで三十分ほどなのだが、RERの「得意技」の突然の運休が三本続き、ホームで三十分近く待たされる。これだからRERは嫌いなんだよ。
 空港での搭乗手続きに一時間行列に並ばなければならなかった。これは行列が長かったからではなく、陰性証明書の提示に手間取る人が多く、各乗客の確認にえらく時間がかかったからである。こういうことには用意周到な私は何の問題もなく、五分もかからなかった。出国手続きは行列もなく、あっというまに完了。手荷物チェック係の女性の態度が横柄でちょっと不愉快だったが、まあよくあることだし、大したことでもない。
 搭乗開始まで一時間ほどある。家族・親族へのお土産を購入。いつも大体決まっている。
 そして、いまこの記事を書いている。今、脇の通路を添乗員の女性たちが降りていった。
 明日から八月末まで、東京発の記事になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


悠久の懐かしさ

2022-07-17 23:59:59 | 読游摘録

 今朝、昨日PCR検査を受けた検査場で日本の厚生労働省指定の検査証明書に必要事項を記入してもらった。記入といっても、検査方式など当該項目にチェックを入れ、検査場の判子を押してもらうだけのことで、一分で済んだ。すぐに家に戻り、スマートフォンで MySOS のアプリを使って証明書の写真を撮り送信。一時間ほどで検疫手続事前登録完了の通知が届き、アプリの画面が黄色から青色に変わった。後は空港での出国および入国手続きのときこの青色画面を提示すればよいだけである。念のためにPCからも同様の手続きを完了させ、さらに青色の頁とQRコードとを印刷した。ワクチン接種証明書、陰性証明書ももちろん紙版を携行する。
 今回の出入国に必要な書類が揃って安心したということもあるのだろう、明日の出発前に片付けておきたい仕事もなくはないのだが、一日を争う緊急案件はなく、日本でもできることだからと、よく晴れた今日一日、少しずつ荷造りをしながら、のんびりと読書をして過ごした。
 読んでいたのは高瀬正仁氏の『評伝 岡潔 ――星の章』(ちくま学芸文庫 2021年 初版 海鳴社 2003年)。二年ほど前、同氏の『岡潔 数学の詩人』(岩波新書 2008年)を読み、その「あとがき」で著者が八年のフィールドワークを重ねて執筆した二冊の評伝『評伝 岡潔 ――星の章』『評伝 岡潔 ――花の章』(海鳴社 2004年 本書もちくま学芸文庫として今年一月に刊行された)のことを知り、かねてより読みたいと思っていたのだが、ちくま学芸文庫として再刊されていること一昨日知り、早速電子書籍版を購入したのだった。こういう本はゆっくりと味わうように読みたいから紙版も中古品だが購入した。帰国中滞在する妹夫婦の家に数日後には届く。
 岡潔自身のエッセイにも度々出て来る「懐かしさ」は、岡潔が言うところの「情緒」を理解する手掛かりを与えてくれるキーワードだが、高瀬氏の評伝でもとても印象深く語られている。「心情の美と数学の変容」と題された章の冒頭に、岡潔が文部省の在外研究員として日本郵船の北野丸でフランスに向かう途次の話が出て来る。シンガポールの波打ち際で、ある悠久なものの影に心を打たれたときのことである。この話は岡自身によってさまざまなエッセイの中で変奏されながら繰り返し語られているのだが、それだけ岡にとって決定的に重要な経験の一つだった。
 高瀬氏が引用しているエッセイ集『一葉舟』(角川ソフィア文庫 2016年 初版 読売新聞社 1971年)の巻末に収録された「ラテン文化とともに」の当該箇所は以下の通り。

 一九二九年に私は、一人でシンガポールの渚に立っていた。長い椰子の木が一、二本斜めに海につき出ている。はるか向こうには、ニ、三軒伊勢神宮を思わせるような床の高い土人の家が、渚にいわば足を水にひたして立っている。
 私は寄せては返す波の音を聞くともなく聞いているうちに、突然、強烈きわまりない懐かしさそのものに襲われた。時は三万年くらい前、私たちはここを北上しようとして、遅れて来る人たちを気づかいながら待っているのである。

 この最後の一文を引いた後、高瀬氏は、この「私たち」というのは「日本民族」を指す言葉であり、北上を続けていって行き着く先は言うまでもなく「日本」であると述べている。この懐かしさがわかるとは私には言えないが、それが何かとても大切なことだということは理解できる。この懐かしさについて、高瀬氏は少し先で、「あたかも生まれる前からもっていたと思えるような、名状しがたい「悠久の懐かしさ」とでも言えるような深い「懐かしさの感じ」であったとも言っている。
 唐突だが、哲学もまた、この懐かしさから生まれ、そこへと帰ってゆくものなのではないだろうか、と自問している。バルバラ・カッサン(Barbara Cassin, 1947‐)の La nostalgie. Quand donc est-on chez soi ? Ulysse, Énée, Arendt, Éditions Autrement, « Collection Les Grands Mots », 2013馬場智一訳『ノスタルジー:我が家にいるとはどういうことか? オデュッセウス、アエネアス、アーレント』、花伝社、2020年)を合わせて読みながら、「懐かしさ」について考えてみたいと思う。


PCR検査結果「陰性」

2022-07-16 23:59:59 | 雑感

 今日の午前中、PCR検査を近所の検査場で受けた。結果は夕方メールで知らされる。陰性であった。感染はしていないだろうとさほど心配はしてなかったが、やはりホッとする。これで日本に入国する準備はほぼできた。
 ほぼ、というのはファストトラックによって入国前に検疫手続きの一部を済ませておく必要があるからである。これは MySOS というWEB上のサイトまたはスマートフォンのアプリを使って行う。こちらがアップしたワクチン接種証明書とPCR検査陰性証明書が日本の厚生労働省によって審査されるので、その結果を待つ必要がある。夕方届いたフランスの正式な陰性証明書は何度アップしても、検査方法の記述が不十分とみなされ通過しない。
 そんなこともあろうかと、日本政府発行の証明書のフォーマットを予め印刷しておいた。しかし、これは結果がわかるまでは記入してもらいようがない。そこで、明朝同じ検査場にそのフォーマットへ記入してもらうためだけに再度予約を入れた。幸いなことに検査場は日曜日も開いているから、出発当日の月曜日にあたふたすることもなく済む。
 それにしてもこんな手続きをいつまで続けなければならないのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


言語への「異物混入」としての句読点

2022-07-15 22:12:52 | 日本語について

 日本語の表記について今日も考えました。今日のお題は句読点です。これが難しい。そして、「実に面白い」(福山雅治のガリレオ調でお願いします)。
 このブログを書くときにも、どこで「、」つまり読点を打つか、かなり神経を使っています。個人的な原則として、読点は少なければ少ないほどいいと考えています。読点がなくても読み手がすらすらと読み下せ理解できる文が私の理想です。他方、敢えて読点を多用するときもあります。それはすらすら読んでほしくないときです。「ちょっと待って」「ここで立ち止まって」と読み手の方にお願いしたいとき、打たなくても文法的には誤解の余地のないところにも敢えて読点を打ちます。
 人の文章を読むときも読点が気になります。仮に読点以外の字面はまったく同じ文でも、読点の打ち方でリズムや呼吸が変わるからです。どうしてここで読点を打つのだろうと考え込んでしまうこともあります。文学作品の場合、特に詩作品の場合、読点の打ち方が作品の命、これはちょっと言いすぎかも知れませんが、少なくとも作品の本質に関わりのない単なるアクセサリーではないことは確かです。
 日本語には本来句読点はありませんでした。いや、日本語にかぎりませんね、他の言語でも、時代を遡れば遡るほど、パンクチュエーションの規則は不確かです。そんなものはもともとなかったのです。それは当然のことで、パンクチュエーションは書き言葉固有のものであり、話し言葉には存在しなかったからです。口頭表現でパンクチュエーションに相当するのは「間」ですが、これは文法規則とは別のルールに支配されています。これも実に面白いテーマなのですが、今日は立ち入りません。
 ちょっと極端な言い方をすれば、句読点、より広く言えばパンクチュエーションは、言語への「異物混入」です。この「闖入」によっていずれの言語もあるとき変化し始めました。それが単なる実用性を超えて規則化・公式化されたときに、書き言葉の話し言葉に対する「自律」が始まったのです。
 話を急ぎすぎました。実は、こんな妄想を抱きはじめるきっかけは、吉増剛造氏が『詩とは何か』のなかで折口信夫について「折口さんが革新的だったのは、歌の中にテン・マルを導入したことです」と言っているのを読んだからなんです。私は現代短歌については無知ですが、短歌全般について言えば、一首のなかにテンもマルもないのが普通ですよね。そういうものとして私たちは読んでいるし詠んでいます。
 ところが、今日、私の愛読書の一冊である塚本邦雄『清唱千首』(冨山房百科文庫35)のなかの『古今集』のよみ人知らずの一首「ほととぎす夢かうつつか朝露のおきてわかれし曉のこゑ」(巻十三 恋歌三 六四一)の注解を読んでハッとしたのです。

愛する人との朝の別れ、朝露はあふれる涙、氣もそぞろ、心ここにないあの曉闇(あかときやみ)に、ほととぎすの鳴いた記憶があるのだが、後朝(きぬぎぬ)の鳥の聲のつらさは、殊に女歌に多い。初句切れ、二句切れの悲しくも張りつめた呼吸も、また「曉のこゑ」なる結句の簡潔な修辭も、後世の本歌となる魅力を秘めてゐる。季節の戀歌として情趣溢れる稀なる一首。

 塚本氏がいう初句切れも二句切れも通常の表記では自明ではありません。その切れを句読点で表記してみましょう。

ほととぎす、夢かうつつか、朝露のおきてわかれし曉のこゑ

ほととぎす。夢かうつつか。朝露のおきてわかれし曉のこゑ

 どうですか。すらすらと句読点なしに読むのとは違った印象を受けませんか。さきほどは「異物混入」と句読点を貶しましたが、使い方しだいでは歌の心を浮き立たせることもできるのではないでしょうか。
 昨日の記事で話題にした仏訳がこの歌の鑑賞を深めてくれます。

Le coucou :
Songe ? Ou réalité ?
Ce chant à l’aurore,
Quand nous nous séparâmes
Dans la rosée du matin.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古典和歌をローマ字表記することについて

2022-07-14 23:59:59 | 日本語について

 今日の話題も日本語の表記についてです。
 Les Belles Lettres 社から先月刊行された『古今和歌集』の仏訳 Kokin waka shû. Recueil de poèmes japonais d’hier et d’aujourd’hui, traduit par Michel Vieillard-Baron を購入して、各歌の仏訳の左側に添えられたローマ字表記の原歌を眺めながら、それらローマ字表記と通常の漢字仮名交じり表記との間の「距離」について考えてみました。
 『古今和歌集』にかぎらず、私たちが勅撰和歌集その他の古典的な和歌を鑑賞するときは、漢字仮名交じり表記が普通ですが、これもそれぞれの歌が生まれたときの表記そのままとはかぎらず、読みやすさを考慮して、底本では平仮名のところが漢字になっていたり、その逆の場合もあります。ですから、校注本や注釈書の表記を歌本来の表記として絶対化することはできません。
 それはそうとして、日本人が和歌を鑑賞するに際して、わざわざローマ字表記を介することはまずありません。学習用の古語辞典で読み方を示す場合にも、現代の平仮名表記が用いられ、ローマ字で発音を示すことはありません。
 上掲の仏訳には、歌ばかりでなく、脚注も含めて、日本語の漢字仮名の表記は一切なく、すべてローマ字表記になっています。フランスを代表する古典和歌文学の専門家による訳業である本書がフランスにおける和歌文学研究のきわめて高度な達成であることは間違いありません。ですが、ローマ字表記された和歌は一体誰のためなのだろうと私は考えてしまったのです。とはいえ、この疑問はけっしてこの偉業に対する批判ではなく、それをきっかけとした日本語表記をめぐる小考の一つにすぎません。
 同業者つまり日本の古典の原文を自分で読める研究者たちには、このローマ字表記は必要ありません。研究者でなくても、歴史的仮名遣いを身につけていれば、日本語の校注本や注釈書を参照すればよいわけです。このローマ字表記を頼りに読まざるを得ないのは、現代日本語は学習したが、歴史的仮名遣いとその発音の仕方は習っていない人たちか、日本語をよく知らない人たちです。
 いずれの場合も、歴史的仮名遣いを忠実に反映したローマ字表記によっては正しく発音できないおそれがあります。例えば、「見む」は「ミム」とは読まず「ミン」と読みますが、ローマ字表記は mimu となっており、歴史的仮名遣いの知識がなければ、読み誤ってしまうでしょう。「けふ」はもちろん「キョウ」と読みますが、kefu という表記からどうやってこの読みが推測できるでしょうか。これらのローマ字表記から正しく読める人はそれを必要とはしておらず、ローマ字表記を必要とする人は正しく読めていないことがしばしばありうるわけです。
 私自身は、正直なところ、ローマ字表記に強い違和感を覚えますが、通常の漢字仮名交じり表記が表すそれぞれの言葉の姿態がローマ字によって消去され、歌の表記が日本語と無縁な表音文字によって斉一化されることで、歌の言葉が生み出す音楽性がいわば剥き出しになっているとは言えるかも知れません。
 皆さんはどうお感じになるでしょうか。一例だけ挙げておきます。巻第一・春歌上・ニ、貫之の歌です。

袖ひちて   Sode hichite      L’eau que j’avais puisée
むすびし水の Musubishi midzu no  Mouillant les manches dans l’onde
こほれるを  Kohoreru wo     Glace est devenue :
春立つけふの Haru tatsu kefu no  En ce premier jour de printemps
風やとくらむ Kaze ya tokuramu   La brise la fait-elle fondre ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


片仮名書きによる表現の異化作用について

2022-07-13 23:59:59 | 日本語について

 吉増剛造氏が『詩とは何か』の中で片仮名書きに触れている箇所を昨日の記事の中に引用しました。私は実践したことはありませんが、もしやってみたらどんな感覚をもたらすでしょうか。吉増氏がいう「別の血液が流れる」とはどのような感覚なのでしょうか。試すのはまたの機会にして、読む側から平仮名書きと片仮名書きの違いについて少し考えてみました。
 小説や漫画などで、外国人が日本語を話している部分を片仮名書きにすることがありますね。それは話されている日本語が日本人が話す日本語とは少し違っていることを視覚的に示すという効果があります。他には、ある言葉の音は聞き取れても、それが何を意味しているかわからないときに使われます。例えば、映画『かぐや姫の物語』で、翁が相模をかぐや姫に紹介するとき、「高貴の姫君」「宮中」という言葉を使い、それを聞いたかぐや姫が意味がわからないままにそれらの言葉を繰り返す場面の日本語字幕は、「コウキノヒメギミ? キュウチュウ?」となっています。他の用例として、どの小説だったかもう覚えていませんが、主人公の独白部分が漢字片仮名書きになっている作品がありました。さらに、漢字で書くのが普通の語を片仮名にすると、本物とは似て非なるものを意味することもあります。例えば、「哲学」のかわりに「テツガク」と書くとき、そういう効果が生まれることがあります。
 これらの例は、一言でまとめれば、本来は漢字あるいは平仮名で書くところを片仮名にすることで生じる表現の異化作用と言うことができるでしょう。
 ところが、片仮名の使用は、戦前、明治期、さらにはそれ以前の時代には、むしろもっと広く行われていました。
 古典の中にも漢字片仮名書き版があり、例えば、『方丈記』の現存最古の写本、大福光寺本(一軸)や岩波古典文学大系版『愚管抄』の底本、島原本がそうです。それ以降も、日記や覚書や備忘録の類には漢字片仮名書きは珍しいことではありませんでした。明治に入ってからも小学校の教科書は片仮名書きから始まっており、子どもたちが最初に学習したのは片仮名でした。片仮名書きが主に外来語の音写に限定されるのは一九四七年以降のことで、それまでは片仮名書きは日常的にもっと広く行われていたようです。
 通常平仮名を用いるところを片仮名にすることによって表現にある種の異化作用が起こるのは、戦後、一般的な日本語表記において片仮名書きの範囲が狭められたことによるとすれば、それは戦後になってはじめて発生した現象だということになります。そこまでは言えないかも知れませんが、私たちが今日通常漢字平仮名書きにするところが漢字片仮名書きに変換されている文章を読むときに感じる違和感、抵抗感あるいは読みにくさは、もしかすると、まだ見ぬ日本語の別の世界の入り口に立たされていることから来るのかも知れませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


詩を書き写す、ということ

2022-07-12 11:29:26 | 読游摘録

 昨日の記事では、声に出して読むということについて少し考えてみました。これは私自身日頃から実行していることで、私なりに吉増氏の言うことが感覚として摑めるところがいくらかはあります。
 『詩とは何か』でさらに印象深いのは、氏が他の詩人の作品を書き写すということを何年か日課にしていたことです(今でも続けられているのか、それは知りません)。吉本隆明さんが亡くなってから、吉増氏は『日時計篇』という吉本さんの初期詩篇をほぼ毎日一篇というペースで書写していきました。このとこについては2015年8月28日の記事にかなり詳しく書きました。
 『詩とは何か』のなかにもその書写のことが出て来ます。そこを読んでみましょう。

わたくしは吉本隆明さんの「日時計篇」という、二十六歳から七歳のときに五百数十篇を毎日毎日どこに発表することもなく書かれた詩を書き写すときに、平仮名、漢字、独特の表現をわたくしなりに片仮名に変換して、しかも刻みつけるようにして彫刻的に紙の上に筋をつけて、そして書き写しているときに、……そのとき立ちあがってきたものは、八重山か沖縄の方々に、あるいは異国の方々にも、話し掛けている声のような気がいたしますが、……この片仮名に書くときにも、言葉のというよりも、わたくしたちの心の奥底に潜んでいる別の、別の心の大陸の杣道、枝道、獣道、白くて細い、雲のようなときに触れるような経験を、片仮名で書いている刹那にいたしておりました。

 書写することで、黙読しただけではもちろんのこと、声に出して読んでも聞こえては来ないかもしれない声が聞こえて来る。しかも、片仮名に変換しつつ書写することではじめて、「別の心の大陸」が立ち現れて来る。その大陸を一歩一歩踏みしめるように言葉を刻みつけていく。この「大陸」への道が誰にでも開かれてくるのか、それはわかりません。「声」が誰にでも到来するか、それもわかりません。ただ、少なくとも、書き写すことは誰でも始めることができます。「大陸」への杣道がおぼろげながらでも現れて来るの待ちつつ、「声」が聞こえて来るのを待ちつつ、書き写しつづけることはできるはずです。
 上に引用した箇所は、原民喜の「燃エガラ」という詩について語っている節の中に出てきます。その次の段落も引用しましょう。

 広島で原爆を経験した原民喜さんがどうしても片仮名書きでしなければ語れなかった「経験」、あるいは『戦艦大和ノ最期』を書かれた吉田満さんが全文、漢字と片仮名で書かれた、あの非常時の表現のようなもの。やってごらんになるといいですよ、片仮名で書かれてみると、論理や意味や思想はそのままでありながら、別の血液が流れはじめますから。

 床に正座して、大きな紙の上にかがみ込むようにして「日時計篇」のなかの一篇をそれこそ刻みつけるように書写されていた吉増氏の姿を想い出します。詩を書写するという行為は、体を使って、読む、というよりも、言葉の彼方の別の大陸へと通じる杣道を身をもって探し、辿る、ということなのかもしれません。