●半田市乙川村の誇るべきこと!
同年の年次総会に郷土誌ライターの西まさる氏を招いた。
西氏はこの地の生まれではないが、熱心に乙川の歴史を掘り起こしている
ライターで、近著では乙川村出身の「悲しき横綱の生涯 大碇紋太郎」を著している。
その西さんが今日取り上げた話題は、
1890年(明治23年)3月30日、はじめての陸海軍合同の大演習が、大雨の中、明治天皇臨御のもと、
半田で行われ、乙川の白山公園で馬を止められた歴史が刻まれているのですが・・・・・
大雨の中で亀崎へ向かう筈が、道を間違えて見晴らしの利く白山公園へきてしまったのだという秘話。
乙川村殿町出身の大碇紋太郎は京都相撲で横綱まで張り、ロンドン万国博覧会で喝采を浴びたが
その後今風のプロレスに誘われ悲しい最後を迎えたのではないかという推理。
今のトヨタの創始者 豊田佐吉が27歳のとき乙川村の富豪 石川藤八氏を訪ねて研究資金と
30坪の工場を与えられその後の大成功に結びついたこと。
この乙川村が
明治時代には栄えていた このふるさとをモット誇りに思ってもいいのではないか?
と結んで講演を終えた。
同年の年次総会に郷土誌ライターの西まさる氏を招いた。
西氏はこの地の生まれではないが、熱心に乙川の歴史を掘り起こしている
ライターで、近著では乙川村出身の「悲しき横綱の生涯 大碇紋太郎」を著している。
その西さんが今日取り上げた話題は、
1890年(明治23年)3月30日、はじめての陸海軍合同の大演習が、大雨の中、明治天皇臨御のもと、
半田で行われ、乙川の白山公園で馬を止められた歴史が刻まれているのですが・・・・・
大雨の中で亀崎へ向かう筈が、道を間違えて見晴らしの利く白山公園へきてしまったのだという秘話。
乙川村殿町出身の大碇紋太郎は京都相撲で横綱まで張り、ロンドン万国博覧会で喝采を浴びたが
その後今風のプロレスに誘われ悲しい最後を迎えたのではないかという推理。
今のトヨタの創始者 豊田佐吉が27歳のとき乙川村の富豪 石川藤八氏を訪ねて研究資金と
30坪の工場を与えられその後の大成功に結びついたこと。
この乙川村が
明治時代には栄えていた このふるさとをモット誇りに思ってもいいのではないか?
と結んで講演を終えた。