「天は二物を与えず」ということわざ。
それが、それが真っ赤なウソ、だと80年代、すでに知ってしまっていた。
たとえば、ケイト・ブッシュ、そして、愛するデヴィッド・シルヴィアンなどとの出会い。
ほれぼれするような容姿、という外見とは別に、稀有な才能を出力表現しきった音楽の数々。
中学3年生にして出会ったジャパンの作品「孤独な影」。
そのジャケットに刻まれた蒼白い表情。
ミーハーバンドとそれまで思い込んでいたジャパンの深層に、耳が到達した日。
まるで彫刻物のような、美しいデヴィッド・シルヴィアンの姿に、恋焦がれた。
英語のタイトルは「ジェントルマン・テイク・ポラロイド」だったが、それを「孤独な影」と邦題を付けたのは、ある意味正しかった。
「この人は、本気で、自分の個/孤をみずから背負う覚悟があるんだな」と少年は思った。
孤立無援の状況であれど、周囲と断ち切れたとしても。
自分の孤独な状況とのシンクロとシンパシー。
「才能は枯渇する」とは、立花ハジメの吐いた名言だが、それも否定される。
デヴィッド・シルヴィアンの才能は、ずんずんと、その後も「深化」し続け、ひたすら、わが道を行く。たった一人で。
その様に導かれ、酔い、励まされてきた自分は、同じ時代を生きてきて幸福だったと思っている。
そんな自分でも、2003年の作品「ブレミッシュ」なる新たな領域に踏み込んだとき、「まだまだ、この人は行くところまで行くんだな」と新たに思った。
昭和女子大学・人見記念講堂の最前列に座って、高木正勝が描く粒子の雨が降り続く映像の中、「静」を身体で現わす、数メートル先のデヴィッド・シルヴィアン。
後ろを振り帰ることの無い孤高の姿は、妙に切なく映った。
よく、みうらじゅんさんが「キープ・オン・ロックンロール、でなければいけないんだ」と言う。
「ロックンロール」には興味は無いが、何を言わんとしているかは明快である。
いずれ時代のおきざりにされる表現であってはならない、ということ。
決して、「時間だけが新しい」作品だけを創り続ける、という意味では一切ない。
自らの思い入れを除いても、デヴィッド・シルヴィアンのヴォーカルの表現力と美しさの天下一品さ。
それは、坂本龍一の作品「キャズム」におさめられた「ワールド・シティズン」を一例に挙げても、明白なる事実である。
既に7年が経過してはいるが、2007年、デヴィッド・シルヴィアンの作品に「WHEN LOUD WEATHER BUFFETED NAOSHIMA」なるものがある。
瀬戸内でのアート展。その開催に参加した大竹伸朗さん。
彼にコンタクトを取って来たデヴィッド・シルヴィアン。
旧友/同朋である2人は、船に乗り、直島へとゆるりと船出する。
デヴィッド・シルヴィアンは、瀬戸内の風景を見やりながら、録音機でフィールド・レコーディングを始める。
それを眺めるファンでもあり・友でもある大竹。
この様は、大竹さんの「ネオンと絵具箱」におさめらている。
「たった今、自分の興味をひく新しい音を録音し、早くまた次の音楽をつくりあげることへの喜びが、こちらにも伝わってきた。
船から美しい風景をぼーっと眺めることも、重要なことの一つではある。
しかし、それでは彼の中に在る『時間』はまっとうに過ぎ去ってくれないのだ。
音をつくり出すことでしか、納得のいく時間は流れてくれないのだ。
そう思った。」(大竹伸朗「ネオンと絵具箱」より)