今回は『瑞鳳殿(ずいほうでん)』から三代綱宗廟『善応殿(ぜんのうでん)』と二代忠宗廟『感仙殿(かんせんでん)』に向かいますよ。
その二つの霊廟に向かう途中に、こんなのありました。
あまり気は進まなかったんですが・・・撮ってしまった『戊辰戦争 弔魂碑』。
はい、近付いてきました『善応殿』と『感仙殿』。
まあ、『瑞鳳殿』から徒歩2分だけどね。
この階段を上って行きます。
あ、全然急じゃないから平気ですよ~。
『善応殿』と『感仙殿』に向かう途中の門ですが、特に名前は無いようです。
まずは『感仙殿』!
『瑞鳳殿』と比較すると観光客はまばらです。
『善応殿』と『感仙殿』は並んで建っています。
『感仙殿』は二代藩主伊達忠宗公(1599~1658)の霊屋(お墓)です。
昔は『瑞鳳殿』と同等の華麗なものでしたが、明治初年に本殿を除いて取り壊され、残った本殿も昭和20年の戦災で焼失しました。
現在の霊屋は『瑞鳳殿』に続いて再建が進められ、昭和60年に完成したものです。
本殿両脇には、殉死した家臣12名および陪臣4名の『宝篋印塔』が並んでいます。
奥に見えるのが『善応殿』です。
こちらが『善応殿』。
ん~、造りと言うかデザインが『感仙殿』そっくりなんですね。
扁額が違わなかったら・・・分からないかも(-_-;)。
『善応殿』は三代藩主伊達綱宗公の霊屋で、『感仙殿』と同様に造営されました。
・・・が、昭和20年の戦災で焼失し、昭和60年『感仙殿』とともに再建されました。
『善応殿』には焼失以前の資料が乏しかったため、種々の検討の結果、綱宗公が好んで描かれた『鳳凰』と『牡丹』を装飾に採用したそうです。
『善応殿』の左前に『擬殉者の墓 無縫塔』がありました。
この石灯篭群も『宝篋印塔』かと思ったら、普通の石灯篭でした・・・。
帰りの順路は、初めに通った『涅槃門』を遠くに見て帰ります。
次回は瑞鳳殿資料館。
お楽しみに!!
その二つの霊廟に向かう途中に、こんなのありました。
あまり気は進まなかったんですが・・・撮ってしまった『戊辰戦争 弔魂碑』。
はい、近付いてきました『善応殿』と『感仙殿』。
まあ、『瑞鳳殿』から徒歩2分だけどね。
この階段を上って行きます。
あ、全然急じゃないから平気ですよ~。
『善応殿』と『感仙殿』に向かう途中の門ですが、特に名前は無いようです。
まずは『感仙殿』!
『瑞鳳殿』と比較すると観光客はまばらです。
『善応殿』と『感仙殿』は並んで建っています。
『感仙殿』は二代藩主伊達忠宗公(1599~1658)の霊屋(お墓)です。
昔は『瑞鳳殿』と同等の華麗なものでしたが、明治初年に本殿を除いて取り壊され、残った本殿も昭和20年の戦災で焼失しました。
現在の霊屋は『瑞鳳殿』に続いて再建が進められ、昭和60年に完成したものです。
本殿両脇には、殉死した家臣12名および陪臣4名の『宝篋印塔』が並んでいます。
奥に見えるのが『善応殿』です。
こちらが『善応殿』。
ん~、造りと言うかデザインが『感仙殿』そっくりなんですね。
扁額が違わなかったら・・・分からないかも(-_-;)。
『善応殿』は三代藩主伊達綱宗公の霊屋で、『感仙殿』と同様に造営されました。
・・・が、昭和20年の戦災で焼失し、昭和60年『感仙殿』とともに再建されました。
『善応殿』には焼失以前の資料が乏しかったため、種々の検討の結果、綱宗公が好んで描かれた『鳳凰』と『牡丹』を装飾に採用したそうです。
『善応殿』の左前に『擬殉者の墓 無縫塔』がありました。
この石灯篭群も『宝篋印塔』かと思ったら、普通の石灯篭でした・・・。
帰りの順路は、初めに通った『涅槃門』を遠くに見て帰ります。
次回は瑞鳳殿資料館。
お楽しみに!!
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