しるしのないカレンダー

定年退職した自由人のBLOGです。庶民の目線であんなこと、こんなこと、きままに思ったことを書いてみたい。

堀の町新潟

2012年03月12日 | Weblog
かって新潟は5本の掘割と東西に結ぶ小路を持ち、堀を通る舟によって運ばれる物と人が、湊町と海・川を結ぶ役割を果たしていた。

明治10年半ばにはこの堀を渡る橋が新潟島は133本の橋が架かっていた。
堀を通る舟により町のどこにでも同じ条件で商売が出来た。掘割は、湊町新潟の基礎だった。

米は新潟最大の取り扱い商品であり、白山堀にあった蔵の米は廻船に積み込まれ、大阪や江戸に運ばれた。新津屋小路堀は野菜の堀、御祭堀は魚と野菜の通行堀だった。
本町通りでは毎日未明から辰の刻(午前8時ころ)まで朝市が立った。
町に入る物のほとんどが横堀を通った。

「新潟や都の華侈(かしゃ)にこと変わる並木柳のたてよこの道」与謝野晶子

「ふるさと の ふるえ の やなぎ はがくれ に ゆふべ の
ふね の もの かしぐ ころ」 会津八一

「橋あまた柳のなかに隠されて水ある街の夕月夜かな」与謝野鉄幹 

「柳には赤き火かかり、わが手には君が肩あり、雪ふる、雪ふる。」平出 修

昭和初期には250名を超える芸者が料亭で新潟の夜をもてなし、多くの文人
経済会、政界の名士たちが湊町新潟を堪能した。
この頃は「人力車」の時代であり、堀の周りは狭い道でも十分であった。

新潟国体を契機に堀は埋められ道路となり、柳も移植され、「堀と柳の新潟」は
消え去った。

「ブラタモリ」チーフプロデユーサー「尾関 憲一」氏から古き良き時代の
新潟を是非「ブラタモリ」で掘り起こしてほしい。と熱いエールを送った期待の
企画「シンポジウム」だった。


交通量の増した中心市街地で道路を掘割に戻すことが出来た地域は世界的にも
殆んど例が無い。
韓国で1例、新潟の「早川堀」で計画進行中。と嬉しい?
状況報告がパネリストから報告された。

小生の家にも掘割の写真があったと記憶している。
事務局に今度申し出てみようか!とも思って帰宅した。

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